月刊 遠藤渓太(2019年6月号)~瀬谷高校は、トリコローr…緑の樹林~


月刊 遠藤渓太(2019年6月号)~瀬谷高校は、トリコローr…緑の樹林~

2019/7/3 Google画像検索より

(´-`).o0(公式戦3試合中、3試合出場(スタメン3:フル出場3、アシスト1))
 
 

横浜F・マリノス トリコロールフェスタ2019(2019/6/1)


 
 

2019J1リーグ 第15節 vs.清水エスパルス(2019/6/15)

【試合結果まとめ(3●2)】2019/6/15(土)18:00KO J1第15節 清水エスパルスvs.横浜F・マリノス@ IAIスタジアム日本平 #清水対横浜FM
(´-`).o0(スタメン:フル出場。異議でイエローカード(警告))
 
 

2019J1リーグ 第16節 vs.松本山雅FC(2019/6/22)

【試合結果まとめ(1○0)】2019/6/22(土)18:00KO J1第16節 横浜F・マリノスvs.松本山雅FC@日産スタジアム #横浜FM対松本
(´-`).o0(スタメン:フル出場)

2019 明治安田J1 第16節 vs松本山雅FC | 2019 | 試合 | 横浜F・マリノス 公式サイト

遠藤 渓太

「相手は僕やテル君の良さを消してくる守備をしてきましたし、だからこそ後半のようにスペースをつくる動きがあった方が良かった。もっと早く気づけば、もっと早く攻略できたと思います。
後半、大津君が入って、あのスペースに走ってくれたので、やっとパスコースができました。試合のなかで、もっと考えてプレーできるようになりたいと思います。
(後半は連動から惜しいシュートがあって)マークに着かれていたからこそ、動いて動いて。シュートシーンは入れば良かったですけど、悲観することなく、次はしっかり決められるようにしたいと思います」

 
 

2019J1リーグ 第17節 vs.FC東京(2019/6/29)

【試合結果まとめ(4●2)】2019/6/29(土)19:00KO J1第17節 FC東京vs.横浜F・マリノス@味の素スタジアム #FC東京対横浜FM
(´-`).o0(スタメン:フル出場。1アシスト)
 
 

Webログ

2019/06/04 【連載・東京2020】遠藤渓太/前編「中学時代は『△』評価も、気がつけば“敵なし状態”に」 | サッカーダイジェストWeb

–仲間たちと本気でサッカーをしていた小学生時代

 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。

 3回目は、抜群のドリブルテクニックを誇り、局面の打開力に優れる遠藤渓太が登場。横浜F・マリノスの下部組織出身で、ユースでの最終学年ではクラブユース選手権でチームの優勝に大きく貢献、自身は大会MVPと得点王を獲得し、トップ昇格を勝ち取った。

 プロ入り後は1年目から出場機会を得て、早い段階でA契約を勝ち取る。背番号が18から11に変わった3年目の昨季には、ルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。迎えた今季も左サイドを主戦場に、横浜の『アタッキング・フットボール』を支える貴重な戦力として、際立つパフォーマンスを披露している。

 チャンスメーカーにもフィニッシャーにもなれる成長著しいアタッカーは、ここまでどんなサッカー人生を歩んできたのか。前編では、やんちゃな悪ガキだった幼少期から、“敵なし”と思えるようになったユース時代までの軌跡をたどる。

───◆───◆───

――サッカーを始めたきっかけは?
「幼稚園の頃ですね。3つ上の兄貴が小学校のクラブでサッカーをやっているのを見て、僕も始めたと親が言っていました」

――試合を見に行ったりしていたのですか?
「どうだったかな……覚えていないですけど、でもいつのまにか自分も始めたっぽいです」

――お兄さんは今もサッカーを続けているのですか?
「いや、続けていないですね。遊びとかでやっているぐらいです」

――遠藤選手がサッカーにのめり込んだきっかけは?
「小学校のクラブでは、みんな結構本気でサッカーをやっていたんですよ。ふざけていなかった。わりと強かったし、遊びじゃなくできていたのが大きかった。お互いに高め合えていましたね」

――子ども時代はどんな性格だった?
「まあ、悪ガキでしたね(笑)。世界は自分を中心に回っているんじゃないかぐらいに思っていました。やんちゃだったと思います」

――ポジションは?
「サイドではなく、フォワードでした」

――小学校時代は二俣川SCに所属していて、横浜F・マリノスのスクールにも通っていました。
「小2からですね。小5の時には、他のクラブから選ばれた人たちが集まるスペシャルクラスに入りましたけど、レベルがめちゃくちゃ高かった」

–間で受けて、パスを捌くプレーが好きだった

――プライマリー(横浜の下部組織)には入らなかった?
「あんまりその気はなかったですね。二俣は強かったし、(和田)昌士(現・秋田)もいたので。正直、昌士がいたら、負ける気はしませんでしたね。プライマリーとは、対等とまでは言わないけど、それなりに張り合えていたので」

――“打倒プライマリー”みたいな?
「プライマリー以外にも、フロンターレやバディーSCとかにも負けたくなかった。そういう強豪クラブの選手たちと一緒にプレーできたのが、スクールのスペシャルクラスでした。上手い選手がたくさんいたので、楽しかったですね」

――当時、憧れていた選手は?
「憧れというか、凄いなって見ていたのは、やっぱりシュンさん(中村俊輔/現・磐田)や(齋藤)学くん(現・川崎)、あと横浜ユースで10番を付けていた小野裕二くん(現・鳥栖)とかですかね」

――中学では横浜F・マリノスのジュニアユースに入ります。
「学校から帰ってすぐ、練習場に行く。月曜の休み以外は、ほとんどそんな毎日でしたね」

――いつ頃からサイドの選手に?
「中1になってからですね。たしか、右サイドをやっていました。間で受けて、パスを捌くようなプレーが好きなタイプでした」

――ドリブルで仕掛けるよりも?
「その頃はそんなにドリブルはしていなかったかな。ドリブルが自分の武器だって自覚するようになったのは、高3ぐらいですね」

――ジュニアユースからそのままユースに昇格しますが、高校サッカーに進む選択は?
「いや、一切なかったですね。ユースに上がれるものだと思っていましたから。でも、昇格できるかどうかの判定で、最初は『△』でした。これはやばいぞって」

――でも、無事に昇格を果たします。
「『日々の練習を100パーセント、やっていないだろ』と言われ、それからはもちろん、練習でも100パーセントでやるようにしました」

――ユースでは、いつ頃から試合に絡めるようになりましたか?
「高2ですね。高1の時は、まったく出られなくて、Bチームでもあんまり試合に絡めなかったです」

――出番を掴めるようになったきっかけは?
「特に試合で何かをやったわけではないんですけど、やたらと点が取れるようになりました」

–先輩から「お前が取らないとダメだぞ」と言われて

――試合で使われるようになって、そこで勝つために努力していたことは?
「努力っていうのか分からないですけど、高2の時は、昌士と俺が得点源でもあったんですよ。だから、“自分が取らなければ”という想いはありましたね。周りはひとつ上の代ですごくレベルが高かったし、プリンスリーグでも対戦チームにはたくさん良い選手がいて。そういうなかで、“一発決めればいい”と思っていた。全部悪くでも、1点取ればいいって」

――そういうメンタルは凄いですね。
「先輩たちも期待してくれていたと思います。『お前が取らないとダメだぞ』と言ってもらったりもしましたし、“期待に応えなければ”というのは、少なからずありました」

――高校時代、周りと比べて、自分のここが違う、と思ったところは?
「うーん、まあ、高3になってからは、正直、向かうところ敵なしだなと思っていました。高2から点も取れるようになって、自信はついていました。でも、高3になってからも練習で手を抜いたりしなかったし、天狗になってもいなかったです。1対1になれば、ほとんどゴールを決められた。下級生が多かったけど、すごく良いチームだなと思いながらプレーできていて、そういう意味でも、本当に敵はいないと思っていました」

――そうは言っても、“敵なし”になるまでにそれなりに苦労があったと思います。日々のトレーニングで意識したことは?
「自分の代に、ドリブルが上手い選手がいたんですよ。タイミングとか、間合いの取り方とか、めちゃくちゃ上手い。その選手と一緒にドリブルの練習はしましたね。あとは、利き足ではない左足の練習とかですかね」

――ユースからプロになりますが、実はトップ昇格は微妙だったと聞いています。
「自分自身、上がる気はあまりなかったというか、上がれないものだと思っていました。だから大学もたくさん受けるつもりではいたんです」

――なぜ昇格できないものだと考えていたのですか?
「点は取れてはいましたけど、昇格できるほどの何かを残したわけではなかった。プロになれる手応えもなかったですし。なので、大学に行こうかなって」

–大学進学のために頑張った結果、MVP&得点王に

――“向かうところ敵なし”だったのに。
「ユースではたしかに“敵なし”でしたけど、トップチームの練習参加は数える程度で、下の世代がキャンプに帯同する一方で、自分は行けなかったし。たまにトップの練習に参加させてもらっても、手も足も出ない感じでした」

――挫折を感じた?
「無理だろうなと、勝手に思っていたんですかね。トップに上がれるなんて、夢にも考えていませんでした」

――ただ、高3のクラブユース選手権での大活躍が、プロ入りを手繰り寄せたと思います。チームは優勝して、遠藤選手は大会MVPと得点王に輝きました。盟友の和田選手が直前で怪我をして、“自分が引っ張らなければ”という強い責任感があったのでは?
「そうですね。たぶん、それがパワーになって、あれだけのパフォーマンスを見せられたと思います。ただ、本当は、大学進学のために頑張っていたんですよ。その時、大学からあまり声がかかっていなくて。クラブユースって、結構大学のスカウトが来たりするじゃないですか。だからアピールするために頑張ろうって」

――いずれにしても、達成感は大きかったのでは?
「優勝までの道のりは決して楽ではなかった。予選の最初の試合でも、先に点を取られて、苦しい展開になって。でも、逆境に強いんですかね。その試合で3点取って勝つと、そこからどんどんゴールを重ねて、気づいたら決勝に行ってた感じですかね」

───◆───◆───

 兄の影響でボールを切り始めるようになり、小学生時代は気の合う仲間たちと切磋琢磨し、サッカーと真剣に向き合う日々を過ごした。横浜の下部組織に入ってからはメキメキと力をつけ始め、順風満帆とまではいかないまでも、ユースからのトップ昇格を勝ち取った。

 6月4日にお届けする中編では、幼馴染でありライバルである和田昌士への想いや、プロになるための心構えを学んだ高校時代をさらに深く掘り下げる。

PROFILE
遠藤渓太/えんどう・けいた/1997年11月22日生まれ、神奈川県出身。175㌢・66㌔。二俣川SC―横浜Jrユース―横浜ユース―横浜。J1通算75試合・4得点。小学生時代は横浜のスクールに通い、中学からは横浜の下部組織でプレー。ユースでの最終学年では優勝したクラブユース選手権で大会MVPと得点王に輝く。10代から世代別代表に選ばれ、2017年のU-20ワールドカップ出場を果たす。クラブではプロ1年目から出場機会を得て、昨季にはルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。今季も左サイドを主戦場に、アグレッシブな仕掛けで好機を生み出し、自らも果敢にゴールを狙うアタッカーとして活躍する。

取材・文●広島由寛、多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)

2019/06/10 【連載・東京2020】遠藤渓太/中編「”幼馴染でありライバル”の存在が刺激になった」 | サッカーダイジェストWeb

 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。

 3回目は、抜群のドリブルテクニックを誇り、局面の打開力に優れる遠藤渓太が登場。横浜F・マリノスの下部組織出身で、ユースでの最終学年ではクラブユース選手権でチームの優勝に大きく貢献、自身は大会MVPと得点王を獲得し、トップ昇格を勝ち取った。

 プロ入り後は1年目から出場機会を得て、早い段階でA契約を勝ち取る。背番号が18から11に変わった3年目の昨季には、ルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。迎えた今季も左サイドを主戦場に、横浜の『アタッキング・フットボール』を支える貴重な戦力として、際立つパフォーマンスを披露している。

 チャンスメーカーにもフィニッシャーにもなれる成長著しいアタッカーは、ここまでどんなサッカー人生を歩んできたのか。中編では、プロになるための心構えを学んだ高校時代や、幼馴染でありライバルである和田昌士への想いを深く掘り下げる。

───◆───◆───

–一時は大学に行く気満々だった

――トップ昇格が決まったのはいつ頃でしたか?
「クラブユース選手権が終わって、1か月くらい経った頃ですね」

――どんな経緯で?
「クラブユース選手権で得点王とMVPを獲ってから、多くの大学からオファーをもらったんですよ。その頃は大学に行く気満々でした。クラブユース選手権が終わった後の(川崎)フロンターレとの練習試合では2失点に絡む酷い出来で、これではトップ昇格はできないだろうって勝手に思っていましたから。それで、どこの大学にしようか迷っていた時に、クラブ側から待ったがかかって、昇格が決まったんです」

――当然、第一希望はトップ昇格だったわけですよね?
「それはもちろん」

――だからこそ、夏のクラブユース選手権まで進路を決めなかったのですか?
「そもそも大学から話が来ていなかったんですよ。特待生としてではなく、指定校推薦で来てくれとしか。それが、クラブユース選手権が終わった途端に、やっぱり特待枠で来てくれ、って言われるようになって。やっぱりスポーツ推薦で入るのと、指定校推薦では全然違いますからね」

――ではトップチームに昇格できると決まった時の気持ちは?
「本当にビックリしました。ただ嬉しかったのは確かです」

–松橋監督の下で人としても成長したユース時代

――当時ユースの監督だった松橋力蔵さん(現トップチームコーチ)からは、何を学んだ?
「リキさん(松橋監督)は、どれだけ能力があっても、気が抜けていたり、集中していなかったりする選手は使わないから、チームに正当な競争が生まれていたんです。自分もしっかりやらないとメンバーから外される。そういう危機感を持ちながらやれたから精神的にも鍛えられました」

――実際にメンバーから外されたことは?
「ないです。結構真面目にやっていたんですよ。僕個人では怒られたこともあまりないです。実は(和田)昌士(編集部・注/現秋田のMF。遠藤とは小学生時代からのチームメイトで横浜のトップチームにはともに昇格を果たした)はよく怒られていて。たぶんあいつは怒られて伸びるタイプだったから。そういうのを分かっていたんじゃないですかね、監督も」

――怖い監督でしたか?
「はい。気持ちの入っていないゲームをしてしまった時には、やっぱりかなり怒られるし、怖かったですね」

――今まで一番影響を受けた監督は?
「やっぱりリキさん(松橋監督)ですね。あの人が担当していた頃のマリノスユースって強いし、日本一に何度も輝いている。それってなかなか簡単ではないし、やっぱり凄いなって」

――指導を受けている時に感じた凄みは?
「選手一人ひとりの性格を事細かに理解していて、それを踏まえて起用するタイミングを決めているんですよね。『この選手は今使えば奮起してくれるだろう』とか、そういうのをすごく分かっていた。人を見る力がすごくあるっていうか」

――選手によって指導法を変えていると。
「今も結構話す機会が多いんですけど、そう言っていました。上級生と混ざって練習している時に、納得いかないことがあってボソッと愚痴を言う選手っているじゃないですか。リキさんいわく、そういう選手は上に大成するらしいです。僕も言われました。『お前も隠れてでグチグチ言っていたからな。でもそういう選手が上にいくんだよ』って」

–幼馴染でライバルの和田は大きな存在だった。いつか追いつこうと――

――和田選手も愚痴を言うタイプでしたか?
「そうでしたね(笑)」

――小学校から苦楽をともにした和田選手はやはり刺激に?
「はい。大きな存在でした。昌士は小学校時代から有名で、本当に凄かった。マリノスのジュニアユース、ユースにもトントン拍子で上がって。ジュニアユースの時には、ひと足早くユースの練習に参加していました。なかなか、いないんですよ、そういう選手って。ユース時代にはイングランドのマンチェスター・シティに留学したりとか、トップチームのプレシーズンマッチで点を取ったりとか……。あれは高1の時だったかな。僕はボールボーイをやっていたんですけど、あいつは普通に先輩の中に混じって試合でバリバリやっているんですよ。『こいつ、やっぱり凄いな』って思いましたね」

――身近に、ひとつ先をいく存在がいて、焦りもあったのでは?
「それは間違いありません。いつか追いつこうと必死でした。でも高3になってから、追いつけてきたのかなって実感も徐々に沸いてきました。だから俺らふたりでチームを引っ張って日本一になれるんじゃないかって」

――16年にトップチーム昇格後、より多くの出番を掴んだのは遠藤選手でした。逆転できた要因は?
「たぶん、運です。最初にチャンスが巡って来たのが僕で、その試合で勝てたのがなによりも大きかった(16年第1ステージの新潟戦。2-1で勝利)。その年は開幕から2試合勝てていなくて、どうしても落とせない試合だったから、あそこで引き分けたり負けていたりしたら、僕はそれから使ってもらえなかったかもしれません。そこでアピールできたからこそ、今の僕の立場がある。そういう運があっただけです、僕には」

――いわゆる“持っている”選手だったと。
「そういうことになりますね(笑)」

――とはいえ運があるのは、大きな強みです。
「それは自分でも思います」

――今は別のチームですが、和田選手とは今でも連絡を取っている?
「ラインはぼちぼちしますけど。会う機会はやっぱりほとんどないですね。昌士が横浜に帰ってきた時くらいです」

–遊びたい欲求を我慢して、サッカーに打ち込んできた

――プロになって高校時代に活きた経験は?
「左足の練習です」

――両足遜色ないキックは武器ですね。どんな練習を?
「これと言って特別なことはしていないですよ。ただシュート練習とかでは利き足だけではなく、逆足でも万遍なく打つように心掛けていました」

――高校時代に、試合とか出られない時期も精神的にブレなかった? 遊びたいと思ったりは?
「もちろん羨ましかったですよ。バイトをしたり、遊びに行ったり、放課後に教室に残ってみんなとおしゃべりしたり……、文化祭とかにも行きたかったですしね」

――辞めたいとは思わなかった?
「それはなかったですね。今だから思うんですよね。結局何かを失わないと、目標って成し遂げられないんじゃないかなって」

――高校生でどうやって、誘惑を断ち切ったのですか?
「気を緩めたら、他の同世代の選手から後れを取ってしまうって自分に言い聞かせていました。プロサッカー選手ってみんなそうだと思います。周りが遊んでいる時もサッカーに打ち込んできたからこそ、今があるんです」

───◆───◆───

 高校1年生時から3年生に混じって試合に出ていた、いわばエリートの和田に負けじと、コツコツと練習を重ね、地道に力を着けてきた。そうしたライバルに刺激を受け、目利きの松橋監督の下でひたすらサッカーに明け暮れたからこそ、プロの道が拓けた。

 6月5日にお届ける後編では、プロになってから芽生えた意識や手応え、20年に開催される東京五輪への想いに迫る。

2019/06/17 【連載・東京2020】遠藤渓太/後編「ふたりの外国人監督の下で掴んだ手応えと東京五輪への想い」 | サッカーダイジェストWeb

 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。

 3回目は、抜群のドリブルテクニックを誇り、局面の打開力に優れる遠藤渓太が登場。横浜F・マリノスの下部組織出身で、ユースでの最終学年ではクラブユース選手権でチームの優勝に大きく貢献、自身は大会MVPと得点王を獲得し、トップ昇格を勝ち取った。

 プロ入り後は1年目から出場機会を得て、早い段階でA契約を勝ち取る。背番号が18から11に変わった3年目の昨季には、ルヴァンカップのニューヒーロー賞を受賞。迎えた今季も左サイドを主戦場に、横浜の『アタッキング・フットボール』を支える貴重な戦力として、際立つパフォーマンスを披露している。

 チャンスメーカーにもフィニッシャーにもなれる成長著しいアタッカーは、ここまでどんなサッカー人生を歩んできたのか。後編では、プロになってから芽生えた意識や手応え、そして東京五輪への想いに迫る。
 
 
–プロに入って一番感じた違いは、ゴールキーパーの質

――プロ入りしてからは1年目でリーグ戦23試合に出場。それだけ多くの出番を得られるのは、自分でも驚きだったのでは?
「『まさか』って感じでした。やっぱりリーグのデビュー戦となった新潟戦で勝てたのが一番大きかったですね」

――しかも、いきなり先発出場でした。
「チームの調子が上がっていなかったので、監督は何かを変えたかったんだと思います。それで、たまたま練習で良いパフォーマンスができていた僕が使われたんです」

――緊張したのでは?
「それはかなり。でも細かいことを考えていても仕方がないので、ピッチに入った時には、もうやるしかないなって心を切り替えました」

――プロになると責任感も大きくなりますか?
「そうですね。見られる機会も多いし、不甲斐ないプレーはできません。ただ、今はいい意味で、もうそんなに人の目は気にならなくなりました

――プロとしての自覚が芽生えたのはいつ頃?
「やっぱり試合に出始めてからです。結構早い段階で出てきました」

――ユースとの一番の違いは?
「ゴールキーパーの質です。ユースの時は強いシュートを打てば入ったけど、プロの選手には簡単に止められてしまう。コースを狙わないと全然入りません。トップチームに上がった当初はそこを一番感じましたね」

–最近は落ち込んでも切り替えられるようになった

――プロ1年目の時はエリク・モンバエルツ監督の下でプレーしていました。信頼を得るためにやっていたことは?
「ドリブルでの仕掛けや、裏に抜け出しが好きな監督だったので、そこはかなり意識していました。そこは自分の持ち味だったし、監督からも買ってもらっていたので。そこは存分に出さないとなと」

――スタイルが合うから、気持ちよくプレーできたのでは?
「面白かったです。たまにサイドバックで出たりもしましたけどね」

――サイドバックはその時が初めて?
「そうです。でも僕がサイドバックに入るのはビハインドの時だったので、あまり守備的ではなく、どんどん後方から裏に抜けていくような役割でした。なので、そんなに苦労はしなかったです」

――とはいえ、プレーの幅は広がったのでは?
「それもあるし、サイドハーフよりも見える範囲が広く、割と余裕を持ってボールを持てるポジションだったので、プロの空気感に慣れるためにはちょうどよかったかもしれません」

――昨年からはアンジェ・ポステコグルー監督の下で、よりポゼッションを重視するサッカーに取り組んでいます。やり甲斐は?
「楽しいです。スタイルがすべてではないけど、うちみたいな連動して攻めるサッカーをするチームは相手からしたら嫌なはずだし、監督もよく『自分たちのサッカーをすれば負けるわけがない』と言っています。しかも徐々に昨年以上に守備は安定してきています。シーズンを通して波があるのは当然だけど、その波をさらに小さくするのが今の課題です」

――チームとしてだけでなく、選手個々のパフォーマンスにも少なからず波はあるものです。調子が上がらない時は、どう切り替えていますか?
「もちろん、しっかりと調整して向かうのが僕らの仕事だけど、毎試合理想どおりにはいきません。僕は波に乗れない時は、攻撃で貢献できない分、今日は守備を頑張ろう、って考えるようにしています」

――あまり引きずらない?
「パフォーマンスが悪い時は、そりゃ落ち込みますよ。今季リーグ戦で初めて先発した名古屋戦で、開始10分でPKを与えてしまって……あれはさすがに堪えましたね。もっと考えてプレーしなきゃいけないなって。でも自分のプレーだけでチームの勝敗が決まるわけでもない。そういう時もある、次は頑張ろうって切り替えたほうが良いなと最近そう思うようになりました」

–「ニューヒーロー賞」の肩書きが、ずっとついて回ってくる

――特に外国人監督の下では、シーズンを通して試合に出続けるのは難しいと思います。ここまでのふたりの監督の下でプレーして、いかがですか?
「外国人の監督って選手の好き嫌いがはっきりしている人が多いけど、僕にとっては普通。プロになってからはずっと外国人監督に指導を受けているので、特別な感覚はないです」

――コンスタントに出番を得られている要因は?
「監督が何を求めているかを理解するのがすごく大事なのかなって。特に外国人監督の下でやるには」

――ポステコグルー監督に求められているのは?
「裏に抜けてからのクロスとか、最近は縦だけでなく中央に入ったりとか、臨機応変なプレー。あとは守備のスイッチになることや、スプリント数も必要ですね」

――スプリントは意識している?
「試合中はあまりしていないです。でもスプリントが多いってことは、結局何かしらの仕事をしているってことだと思うんですよね。裏にも抜けるし、守備に戻るし、ドリブルもするし……、色々な仕事をした結果が、自然と数字に表われているって感じです」

――目に見える結果で言えば、昨年のルヴァンカップではニューヒーロー賞を獲得。形として歴史に名を刻みました。
「でも自分では何かを成し得た感覚ではないです。準決勝のパフォーマンスは良かったかもしれないけど、大会を通してノーゴールでしたから。もしも他のチームが決勝に行っていたら、僕ではなかったはずです。ただ、それでも獲れたのは、やっぱり色々持っているのかなって、そこはポジティブに考えたいですね。今後ニューヒーロー賞受賞者という肩書きが、ずっとついて回る。そういう意味では良いプレッシャーになるのかなと」

――やはり持っている。
「誰がどう見ても思いますよね」

――齋藤学選手との出会いも大きかったと思います。同じドリブラーとして学んだものは?
「ドリブルはもちろん巧いし、そのドリブルをフェイクにして、パスを出したりとか引き出しが多い。そういう攻撃センスが抜群ですよね。目標にしていました」

――その想いもあって、齋藤選手が着けていた11番を志願したのですか?
「いや、空いたからです(笑)」

――ただ花形の背番号で、プレッシャーもあったのでは?
「当然重要な番号だけど、だからこそ、『空いているのに、ここで僕が着けないわけにはいけないだろ』って思った。他の人に何を言われても別にいいかなって」

――意識は変わった?
「思っていたほど、変わりなくやれています」

–東京五輪に出れば、景色が変わってくる

――17年にU-20ワールドカップに出場しました。国際大会の舞台で得た経験は?
「ハングリー精神です。海外の選手って、これで食っていくために頑張ろうっていう気概がすごい。成り上がっていくことに飢えている選手たちばかりでした。自分たちにはそれが足りなかった。だからラウンド16までしかいけなかったのかなと。最後のベネズエラ戦ではチャンスはほとんど作れず、延長戦の終盤に点を取られて負けて……。“これがサッカーか”って改めて痛感しました」

――ただ、そうした厳しい戦いの中で、イタリア戦では堂安律選手のゴールをアシストするなど、結果を残せたのは前向きに捉えてもいいのでは?
「まあ、そうですね。イタリア戦はグループ突破が懸かった大事な試合で、その大一番でスタメンで使ってもらって結果を残せたのは大きかったです」

――次の国際大会は、20年の東京五輪。遠藤選手にとって、どんな位置づけの大会ですか?
「日本での開催だし、国を背負うという意味で大事な大会になる。そういうプレッシャーを経験した選手と、そうでない選手とでは、また見えてくるものも違うはずです」

――いつ頃から五輪を意識するように?
「U-20ワールドカップですね、そこでやっぱり国際舞台っていいなと」

――五輪に向けて新しく取り組んでいることは?
「これといってないです。出場するのが目標ではあるけど、意識し過ぎないようにしているので」

――では最後に五輪への意気込みを訊かせてください。
「決して簡単にいける大会ではないと思う。今F・マリノスで試合に出ていても、大会の時期にまでポジションを確保していなければ呼ばれない。本当これからずっと戦いは続きますが、出場するためにF・マリノスで頑張りたいです」

2019/06/10 【東京2020】国を背負って戦う経験はこれからの視点を変えてくれる・遠藤渓太選手インタビュー | 進路のミカタニュース

ジュニアユースから横浜F・マリノスでプレーし、年代別日本代表でも活躍中の遠藤渓太選手。ジュニアユース→ユース→トップチームと昇格していく陰には、犠牲も伴う大きな努力が隠れていました。
ユース時代からプロ、そして東京2020への意気込みなど、伺ったお話をご紹介します。
 
 
–全部が悪かったとしても、1点さえ取れればいい

―― サッカーを始めたきっかけを教えてください。

幼稚園の頃、3つ上の兄の影響でサッカーを始めました。
小学校ではサッカークラブに入ったんですが、そこは本気でサッカーをしている子が多くて、結構強かったんです。その頃から遊びではなく、みんなで高め合いながらサッカーすることができていました。
 
 
―― 中学生からF・マリノスの育成組織に所属されました。ジュニアユースから高校サッカーに行く選手もいますが、遠藤選手はどう考えられていましたか?

高校サッカーに行こうという気持ちは一切無かったですね。ユースに上がれるものだと思っていましたから。でも最初の昇格判定で「△」だったんです。「これはやばいぞ」と思って、そこから滑り止めの意味で高校を受験したりもしました。
コーチからは「日々の練習を100パーセントでやっていないだろ」と言われていたので、そこから練習も100パーセントで取り組むようになりました。それがユースに上がれるようになったきっかけだと思います。
 
 
―― 高校時代、勝つために努力していたことはありますか?

努力と言うのかは分かりませんが、メンタル的には気を使っていたかもしれません。試合に出ている選手はみんな自分より一つ上の代だったし、リーグで対戦するチームにもたくさん良い選手がいました。そんな中でも、「自分が点を取らなければ」という思いで取り組んでいました。全部が悪かったとしても、1点さえ取れればいいかなって。
期待してくれている先輩もいたし、「期待に応えなきゃ」という思いは少なからずあったかもしれないです。
 
 
―― 高校時代、自分はここが違うなと思っていたことはありますか?

高2の頃から点が取れていたことで自信がついていたので、高3になってからは、正直向かうところ敵なしだと思っていました。当時は下級生が多いチームだったんですが、すごく良いチームだと思いながらやれていましたから。
自分の代に1対1がすごくうまいドリブラーがいたんです。タイミングとか間合いがものすごいやつで……。その選手と一緒にドリブル練習をしたり、左足の練習をしたりしていたことも、自信につながっていたのかもしれません。
 
 
–何かを失わなければ、何かを得ることはできない

―― しかし高3の最初、実はトップチームへの昇格ができるか微妙だったそうですね。当時の心境はどうでしたか?

自分でも上がる気が無かったというか、上がれないものだと思っていたので、大学もたくさん受験するつもりでした。クラブユース選手権という一つの大会では活躍できた自信がありましたが、昇格できるほど何かを残していたわけではなかったので、手応えもありませんでした。
ユースの中では敵がいないと思っていましたが、下の年代の子がトップチームのキャンプに参加する中、僕は練習に数回行く程度。練習に行けても、全然手も足も出ない感じだったんです。
 
 
―― その後、トップへの昇格が決まったのは、いつ頃ですか?

クラブユース選手権が終わって1カ月後くらいですね。クラブユース選手権で得点王とMVPになってから、大学からも、それまであまりなかったオファーが来るようになったんです。それもあって大学に行こうと思っていたんですが、クラブ側からはまだ待つよう言われ、結果として昇格できると伝えられました。
 
 
―― プロになってから、それまでと一番違うなと感じたところはどのような部分でしたか?

ゴールキーパーの質が全然違いました。ユースの頃に打っていたシュートじゃ絶対入らないと思ったし、コースを狙わないと本当に入らない。ユースの時は強く打てば入るゴールキーパーもいましたが、プロはそれじゃダメですからね。
 
 
―― 昨年からはアンジェ・ポステコグルー監督の下でプレーしていますが、いかがですか?

自分たちのサッカーの型があります。うちみたいな攻撃的なサッカーをするチームは相手からしたら嫌だと思うし、監督も「自分たちのサッカーをすれば負けるわけがない」と言っています。そういう攻撃的な部分は楽しいし、昨年以上に守備も安定してきていると思います。シーズンを通して波があるのは当然ですが、その波をいかに小さくするかが今の課題かなと思っています。
 
 
―― プロになって生きた、高校時代の経験は何かありますか?

左足の練習ですかね。シュート練習は満遍なく打つようにしていました。
高校時代、バイトしたり文化祭やったりしているみんなが正直うらやましかったんですよ。でも、僕はブレなかったですね。今だから思いますけど、結局何かを失わないと、たぶん何かは手に入らないんじゃないですかね、プロにもなれないだろうし。
 
 
–国を背負った経験は今後のキャリアでも生きてくる

―― 2017年にU-20日本代表として国際大会に出られましたが、その時どのような経験を得ましたか?

海外の選手って、これで食べていくために頑張ろうっていう気概が、自分たちよりもすごいなと感じました。成り上がっていくために飢えている選手たちばかり。2017年の大会ではもっと上に行きたかったけれど、延長戦の終盤に点を取られて負けて……。これがサッカーなのだと改めて痛感しました。
 
 
―― 次の国際大会は東京2020。大会を意識するようになったのはいつ頃ですか?

U-20の国際大会で意識するようになりましたね。そこでやっぱり国際舞台っていいなと感じました。
 
 
―― 東京2020への意気込みを教えてください。

簡単に行ける大会ではないと思います。今F・マリノスで試合に出ていても、大会の時期までポジションを確保していなければ呼ばれないと思っています。これからのキャリアでも、国を背負って戦うプレッシャーを経験した選手とそうでない選手とでは、見えてくるものも違うと思います。もちろんそこに選ばれるためにF・マリノスで頑張りたいです。
 
 
以前横浜F・マリノスに所属していた川崎フロンターレ・齋藤学選手について、「ドリブルはもちろんうまいし、そのドリブルをフェイクにしてパスを出したりと、引き出しが多いし、センスが抜群。目標にしている選手」と答えた遠藤選手。ドリブルを武器に、日本の代表として東京2020で活躍しているところを見たいですね。

2019/06/07 6月 | 2019 | foodsupporter | ファンゾーン | 横浜F・マリノス 公式サイト

第1回:鯖のみぞれ煮(遠藤渓太選手)

「ご飯がすすむ料理が好き」という遠藤選手。バランスを考えながら食事をすることを心がけているので、魚も意識的に食べるようにしているようです。
鯖は、身が軟らかく、食べやすいそう。また、鮭や鯵よりも鯖の方が好きで、特にご飯がすすむ味付けだと、より一層好きとのこと。
鯖の味噌煮も大好きだけど、今回は大根おろしを使った「みぞれ煮」をチョイス。大根おろしで、脂ののった鯖もサッパリとするし、大根おろしは消化吸収を助ける働きがあるので、練習や試合で疲れた時も食べやすいそうです。

2019/06/13 6月 | 2019 | foodsupporter | ファンゾーン | 横浜F・マリノス 公式サイト

第2回:牛肉のフォー風うどん(遠藤渓太選手)

麺類は、横浜F・マリノスの選手が必ず食べる料理の1つ。遠征時には必ずうどんが提供されます。
そこに栄養価の高い牛肉をプラスして、アジアンテイストの麺料理に仕上げました。
ライムなどの柑橘類をプラスして、より食欲をアップさせてみましょう。

遠藤 渓太選手へのインタビュー

 疲労回復には、練習や試合後に炭水化物を多く摂り、酸っぱいものを食べるように意識している、という遠藤選手。
 特に麺類は大好き。フォーは、なかなか食べる機会がないだけに、うどんで再現してもらえると嬉しいそう。
 栄養価の高い牛肉とうどんの相性は抜群。柑橘のさっぱりとした酸っぱいスープと一緒に食べると、食欲のない時も、この1杯でバランスのよい食事を摂ることが出来ることがポイントとのこと。


「まずはマリノスでしっかり試合に出て活躍する事が代表に繋がると思うし、代表で得た経験がマリノスに戻った時に力になる。」:RISING STARS SPECIAL INTERVIEW 遠藤 渓太 編 – YouTube
 
 

【FIFA19】eスポーツプレーヤー ナスリ選手に挑戦【遠藤渓太選手編】 – YouTube
 
 

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2015/09/02 [ユースからの昇格を発表]遠藤渓太(えんどう けいた)@横浜F・マリノスユース/神奈川県立瀬谷高等学校[2015-2016 移籍/新加入/契約更改]

カテゴリー別アーカイブ: 月刊 遠藤渓太

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