今日の横浜F・マリノスの動向が6分5秒ぐらいでわかるWebまとめ「夕刊こけまり」(2022/7/4) #fmarinos


夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2022/7/4(月)池田航選手、21歳の誕生日)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Instagramなど
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

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今日の練見(れんみ)

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Webニュースログ

2022/07/04 横浜J1通算500勝に木村和司氏「プロは人を呼んで、喜ばせてなんぼ」後輩たちに望む精神 – J1 : 日刊スポーツ

横浜F・マリノスが2日のリーグ第19節、アウェーの清水エスパルス戦(国立)に5-3で勝ち、鹿島アントラーズに続く2クラブ目のJ1通算500勝を記録した。

クラブ創設30周年の節目で、93年のJリーグ開幕戦で記念すべき1勝目を挙げたときと同じ、国立での達成だった。

Jリーグ開幕時に横浜や日本代表で活躍し「ミスターマリノス」と呼ばれたレジェンド、木村和司氏(63)が現役時代の思い、クラブの未来へ向けた思いなどを語った。

   ◇   ◇

500勝達成から、さかのぼること1万640日前の1993年(平5)5月15日。埋め尽くされた国立のスタンドの光景は、今も木村氏の記憶に刻まれている。試合の前から、満員になるとは聞いていたが、それでも感動した。

「うれしかったね」

Jリーグ開幕戦のピッチに立った木村氏にとって、それは特別な景色だった。

日本リーグの日産時代は、サッカー人気が伸び悩んだ。そんな日陰ともいえる時代も経験した。国立では、日本代表として韓国戦で決めた直接FKが、今も伝説として語り継がれている。ただ、日本リーグでは空席が目立つ試合も少なくなかった。

ある国立での試合中、観戦に来た娘が、がらがらのスタンドを走り回る様子が、ピッチから見えたことも。そんな記憶が鮮明に残っている。「試合に集中していなかったということ」と冗談っぽく笑ったが、1人の選手として悔しさがあった。

だからこそ「プロは楽しませてなんぼ」の思いで走り続けてきた。「ワシは、いつも、お客さんを喜ばすためにやっていた」。3点取られれば、4点取る。そんなサッカーを追求した。「1-0でも勝つのはうれしかった。ただ、あまりおもしろくはなかったね」。プロの役目は勝つこと、そして競技の人気を高めること。そう心に刻んでいた。

現役時代のチームメートだったMF水沼貴史の長男宏太が、500勝目の節目で選手としてプレーした。かつて空席も目立った国立に、2日は5万6131人が入り、記念の500勝を飾った。「お父ちゃんをよく知っているし、赤ちゃんのころから(宏太を知っている)。(親子で)大したものだよね。また孫も横浜に入ったらおもしろいね」と、柔らかな笑みを浮かべた。

攻撃サッカーは今も横浜の代名詞。清水戦は2度追いつかれたが、5得点で勝った。「(スタジアムに)来てくれる人を喜ばせるサッカーを、ずっとやっていってほしい。そこを追求してほしい」。監督も務めたクラブで、このDNAが未来も受け継がれていくことを願った。

マリノスの名を冠して30周年。節目の年に挙げた500勝。「世界と比べると、まだまだ日本のリーグも年数はたっていない。これが続いて、スポーツ界を引っ張っていくような存在になってほしい」とエールを送った。

選手としても監督としても横浜の勝利を追い求めた歴史がある。現在も折を見てスタジアムに足を運び、チームの戦いぶりを見守っている。

「プロは人を呼んで、喜ばせてなんぼ。そこが続いてほしい」

苦しい時代も経験した1人として、そう繰り返した。スタンドでは赤、青、白の応援フラッグが揺れる。「好きだよ、トリコロールは」。レジェンドは短い言葉に、誇りと愛着を込めた。【岡崎悠利】

◆Jリーグ開幕戦 1993年(平5)5月15日、東京・国立競技場でV川崎(読売クラブ)と横浜M(日産)が、開会セレモニーに続いて対戦。チケットは抽選方式、NHKの視聴率は32.3%と国民的な関心事となった。試合は前半19分にFWマイヤーのゴールで川崎が先制したが、後半にMFエバートン、FWディアスのゴールで横浜Mが2-1と逆転勝ちした。26歳だった川崎のFWカズはフル出場。タレント軍団・川崎の加藤久、都並敏史の両DFや横浜の木村和司、水沼貴史というレジェンドMF、日本リーグ時代の不遇の時代を支えてきたベテランたちの中には、節目に涙で試合に臨む選手もいた。

◆木村和司(きむら・かずし)1958年(昭33)7月19日生まれ、広島県出身。広島工高-明大。81年に日本リーグの日産(現横浜)に入社。日本リーグでは184試合44得点。Jリーグ開幕戦でプレーするなどし、94年に引退。FKの名手としても知られ、85年10月26日のW杯メキシコ大会最終予選、ホーム国立での日韓戦で「伝説のFK」を決めている。日本代表では54試合26得点。引退後、解説者、指導者として活躍。古巣横浜でも監督を務め「ちゃぶる」の名言を残す。独特の語感が印象的な「ちゃぶる」とは「おちょくる」「ほんろうする」などの意味で多用され、選手を鼓舞。

 
 
2022/07/04 アーセナルを経てJ初挑戦のガラスの天才は“490分で5得点関与”の大活躍 2012年以来、約9年ぶりとなる日本代表復帰はあるか|theWORLD(ザ・ワールド)|世界中のサッカーを楽しもう!

— フィニッシュの精度が格段に上がった

2022年シーズンのJ1リーグは現在第19節までが終了している。首位は40ポイントの横浜F・マリノスで、2位鹿島アントラーズとの勝ち点差は3ポイントである。

そんなF・マリノスの強みはやはり、選手層の厚さだろう。守備陣、中盤、攻撃陣と隙がなく、5-3で勝利した清水エスパルス戦では後半から宮市亮、仲川輝人、マルコス・ジュニオール、エドゥアルド、小池裕太が投入され、宮市は起用に応えるゴールを決めて見せた。

宮市はこれでリーグ2点目だ。怪我に悩まされたキャリアだったが、今季はリーグ戦、ACL、天皇杯で出番を得ており、リーグでは2ゴール3アシストを記録している。

ほぼ怪我なく好調を維持し、ウイングとして存在感を示す宮市だが、E-1選手権での日本代表招集はあるのか。海外組を除いた国内組のみで代表が構成されることになっており、呼ばれることになれば2012年以来の招集となる。

宮市の強みはスピードでありそれは周知の事実だといえるが、今季のF・マリノスで輝く彼の武器は高精度のフィニッシュだ。今季出場機会を得始めた序盤は、フィニッシュの精度の低さが目立つことが何度もあったが、試合を重ねるごとに改善し3-3と引き分けとなった浦和レッズ戦では前半だけで1ゴール1アシストを記録。69分でベンチに退いたがキーパス2本、ドリブル成功率100%と高い数字を残した。

代表で宮市が必要になるとすればジョーカーとしての起用となるだろう。フィニッシュの精度が高い選手であり、数少ないチャンスを決めることができる。ここまで490分のプレイタイムで5得点に関与しているが、同じプレイタイムで同程度の成績を残しているのはジュビロ磐田のファビアン・ゴンザレス(477分で5ゴール)かサガン鳥栖の藤田直之(513分で2ゴール2アシスト)くらいしかいない。

アーセナルでプロとなるも、その後は怪我に泣かされた宮市。それでも昨季日本復帰を果たし、今季は戦力として首位を走るチームを支えている。加速力もそうだが、今季はとくにフィニッシュの精度がよく、エウベルや仲川輝人らと張り合ってもそん色はない。29歳と代表としてはそれほど未来がないかもしれないが、好調の選手であり再びサムライブルー入りとなるのだろうか。

 
 
2022/07/04 横浜F・マリノスがJ通算500勝…1勝目を刻んだ父・水沼貴史氏から30年の時を超え長男・宏太が2アシスト活躍の運命ドラマ(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)

 明治安田生命J1リーグ第19節の9試合が2日に行われ、首位の横浜F・マリノスが清水エスパルスを5-3で撃破。鹿島アントラーズに次ぐJ1通算500勝に到達した。清水の創設30周年記念マッチとして国立競技場で行われた一戦で、FW水沼宏太(32)が2アシストをマーク。国立競技場で1993年5月に行われた歴史的な開幕戦で、父親の水沼貴史さん(62)がマリノスの初勝利に貢献してから30年目。運命に導かれたように、同じ舞台で節目の白星を手にした。

— 前半アディショナルタイムに絶妙クロス
 ここしかないというコースを、超低空の高速クロスが切り裂いていった。1-1で迎えた前半アディショナルタイム。水沼が伝家の宝刀を抜いた。
 清水ゴール前でパスを受けたMF西村拓真(25)が相手を引きつけてから、ペナルティーエリア内の右側をトップスピードで攻め上がってきた水沼へボールを預けた。
 選択肢はひとつだけ。ワンタッチでクロスを、日本代表GK権田修一(33)と清水の最終ラインのほんのわずかな隙間へ入れる。しかも、相手が反応できないほどのスピードで。しかし、FWレオ・セアラ(27)にだけは何も言わなくても意思が伝わっていた。
「ゴール前で僕がクロスを上げられる状態だったら、僕を信じて飛び込んでくれ」
 日々の練習から水沼はこんな言葉を、ブラジル出身のストライカーにかけ続けていた。さらに清水戦のキックオフを前にして、こんなひと言がつけ加えられた。
「今日はアシストするからね」
 果たして、ファーサイドにいたレオ・セアラはただ一人、超低空の高速クロスに反応する。スライディングしながら左足をボールにヒットさせ、美しいボレーを決めた直後。清水の選手たちがアピールしたオフサイドは、もちろん認められなかった。
「あそこしかない、というところに(クロスを)通せたのは、自分が自信を持っている部分でもあるので、ゴールにつながってよかったと思っています」
 J1で屈指のクロッサーの本領を発揮した水沼は、3-2とリードして迎えた後半7分にもレオ・セアラが達成したハットトリックを完璧な形でアシストしている。
 ペナルティーエリアの右角でボールを受けると、中央にいた西村へ意図的に緩いパスを預ける。清水のマークがボールに集中した刹那に前方へダッシュ。西村のリターンを受けてゴールに迫り、自らもゴールを狙える体勢でややマイナスへ折り返した。
 走り込んできたレオ・セアラが右足をヒットさせ、ゴールネットを揺らした瞬間、ペナルティーエリア内にはマリノスの選手が実に6人も走り込んでいた。標榜してきたアタッキング・フットボールの理想型を出せたと水沼は胸を張った。
「僕たちはいま、引いた相手をどれだけ嫌がらせることができるのか、というところに取り組んでいるので。何人も絡んで相手ゴールに向かっていくことができたという意味で、チームとして自信になるゴールになったと思います」
 改修後の国立競技場のピッチに立つのは初めてだった。ただ、スタジアムがある東京都新宿区霞ヶ丘町という場所に、水沼は運命に導かれたような縁を感じていた。
 29年前の1993年5月15日の夜に1試合だけ行われた、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)と横浜マリノス(当時)の歴史的な開幕戦。待ち焦がれたプロ時代の到来を告げる一戦をスタンドで観戦していた水沼は、3歳のころの記憶がないと苦笑する。
「本当にマリノスの旗を振っている記憶しかなくて……」
 日本中が注目した一戦は、1-1で迎えた後半14分に勝ち越しゴールをあげたマリノスに凱歌が上がった。スルーパスに抜け出した水沼貴史が放った強烈なシュートのこぼれ球を、初代得点王の元アルゼンチン代表FWラモン・ディアスが押し込んだ。
 5歳でサッカーを始めてから、マリノスが初勝利をあげた一戦のビデオを何度も見た。父の勇姿を記憶に焼きつけただけではない。父や盟友の木村和司、対戦相手の加藤久ら、長く低迷してきた日本サッカーの冬の時代を支え続けたベテランたちが、キックオフ前の段階で感極まって涙していたエピソードもほどなくして知った。
「会場にいて1勝目を見届けた記憶はありませんけど、会場にいたというところからこうして歴史を作る機会に自分が携われたのは、あらためて幸せだと感じています」
 初勝利を含めた黎明期を父たちが築いてから30年目。鹿島に次ぐ史上2チーム目のJ1通算500勝目を、新旧の違いこそあるものの、国立競技場の舞台で手にした。
マリノスが破竹の5連勝をマークし、なおかつ清水がクラブ創設30周年記念マッチをホームのIAIスタジアム日本平ではなく、国立競技場で開催したからこそ作られた歴史。運命に導かれたようなめぐり合わせに、水沼は感謝の思いを捧げた。
「いままで歴史を作ってきたマリノスの偉大な先輩たちに感謝しつつ、僕たちもその歴史のなかにいることができたのは、あらためて幸せだと思っています」
 もっとも、水沼自身のキャリアは決して順風満帆ではなかった。
 5歳でサッカーをはじめ、いつしか尊敬する父の背中を追ってプロになりたいと誓いを立てた。父のアドバイスもあり、中学進学を機にJクラブの下部組織入りを決意。迷わずにマリノスのジュニアユースの門を叩き、見事合格を果たした。
 ユースをへて2008年にトップチームに昇格。神様ジーコ(鹿島)とジュニオール(鳥栖)、ハーフナー・ディド(コンサドーレ札幌など)とマイク(横浜F・マリノス)に次ぐ、親子2代のJリーガーになった。しかし、当時のマリノスの選手層はあまりに厚かった。
「当時はマリノスで試合に出られるようなレベルではないと自分でも思っていたので、その意味ではそこから十何年がたちますけど、こうしてマリノスのユニフォームを着て国立のピッチに立てて、本当に幸せだと実感しています」
 ちょっぴり感慨に浸った水沼は、前身の日産自動車を通じて、マリノスひと筋でプレーした父とはまったく別の道を選んだ。とにかく試合に出る――をテーマに掲げて、プロ3年目の途中、2010年7月にJ2の栃木SCへ期限付き移籍した。
 在籍した1年半でリーグ戦50試合に出場。父と同じ右サイドアタッカーとして、いま現在につながるクロッサーとしての潜在能力を開花させていった。
 2012シーズンにはJ1へ初めて昇格したサガン鳥栖へ期限付き移籍。J1リーグの舞台でともにゴールを決めた、史上初の父子になった翌2013シーズンからは完全移籍へ切り替え、11年間にわたって所属してきたマリノスと別の道を歩み始めた。
 鳥栖での4年間ではJ1リーグ戦で124試合に出場。充実した日々をすごしたが、2016シーズンに移ったFC東京ではチームが低迷するなかで構想から外れ、FC東京がU-23チームを参加させていたJ3リーグでプレーした時期もあった。
 しかし、翌2017シーズンに加わったセレッソ大阪で、右サイドのスペシャリストとしてだけでなく、常に明るく振る舞い、必要ならば忌憚なく周囲を叱咤する熱血キャラクターがマッチ。YBCルヴァンカップでキャリア初となるタイトルを獲得し、マリノスと対峙した天皇杯決勝では決勝ゴールをマーク。父が6度獲得したタイトルを手にした。
 迎えた2019シーズンのオフ。一度は別々の道を歩み、もう交わることはないだろうと覚悟を決めていたマリノスからオファーを受けた。リーグ戦を連覇するために必要だと口説かれ、実際にトリコロールカラーのユニフォームに袖を通してみると、心の奥底に半ば強引に封じ込めていたマリノスへの愛に気がついた。
 マリノスに復帰して2年目の昨シーズン。リーグ戦で36試合に出場するも、先発は一度だった水沼のもとへは複数のオファーが届いた。わずか677分のプレー時間で、リーグ2位の9つのアシストをマークした実力が高く評価されたからだ。
 しかし、水沼を動かすには至らなかった。マリノスもまた2022シーズンがクラブ創設30周年となる。父が活躍したクラブで歴史に関わる一人になりたい。強い思いは右ウイングのレギュラー奪取につながり、清水戦でプレー時間は900分に達した。
 父とは違う道を、強い信念のもとで歩んできた結果としてマリノスと再び邂逅。節目の通算500勝に2つのアシストで貢献できた胸中を、水沼はこう語った。
「狙ってできたことではないですし、これまで積み重ねてきたものが、こういう運命に導いてくれたというのがあるので。ここまでいろいろなことをあきらめずに、できることを全力でやると積み重ねてきた結果がこうなったと思っているので。正直言って嬉しいですけど、これからも変わらずに自分らしくプレーしていきたいと思っています」
 自分は水沼貴史の息子ではない、という思いも込めて、ユニフォームの背番号の下に入れる名前を『KOTA』と表記してきた。しかし、マリノスの歴史に水沼父子が深く関わっている、という証を込めて今シーズンから『MIZUNUMA』に変えた。
 しかし、J1通算500勝はもちろんゴールではない。節目の勝利を国立競技場で手にした偶然に運命を感じたからこそ、水沼は今シーズンの残り15試合を見つめる。
「一番上を目指して戦っているなかで、今日のような運命的なことがあった。それも踏まえて、チームの30周年である今年は必ず(優勝を)狙っていかなければいけないと、あらためて感じさせられる一日にもなった。まだまだ歴史の通過点にすぎないので、これからもっともっと積み上げていけるように、自分自身を高めていきたい」
 日産自動車時代に日本リーグを席巻した父は、開幕を32歳で迎えたリーグ戦ではタイトルを手にできないまま、1995シーズンの途中に現役を退いた。そして、再びマリノスの一員になった水沼も過去2シーズン、タイトルには無縁のままだ。
3連覇を狙った川崎フロンターレがやや失速し、通算勝利数を559に伸ばした鹿島が勝ち点3ポイント差で追いすがってくるJ1戦線。リーグ最多の41ゴールを叩き出す強力な攻撃陣にけん引されるマリノスの中心に、超一級のクロスに泥臭さ、献身さ、タフネスさ、そして父への憧憬の念を融合させ、華麗だった父とは異なるプレーを体現し続ける水沼がいる。
(文責・藤江直人/スポーツライター)

 
 

 
 

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