夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノスまとめ(2019/05/02) #fmarinos


夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2019/5/2(木)ゴールデンウィーク(10連休)、いかがお過ごしでしょうか。まとめてごそっと)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Instagram
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

F・マリノス令和チャレンジ!豪華賞品が当たるTwitter投稿キャンペーンを開催 | ニュース一覧 | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(G賞ください!)

6/22 松本戦「キッズ10,000名ご招待」実施決定 | ニュース一覧 | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(おいでよ日産スタジアム!)

トップチームスケジュール更新のお知らせ(5/7~5/20) | ニュース一覧 | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(ファンサは無し)
 
 

Twitter / Instagramなど


 
 


The DAY presented by WIND AND SEA【vol.05】 – YouTube
 
 

Webニュースログ

2019/04/26 横浜松原「飛行機みたい」新チームバスお披露目 – J1 : 日刊スポーツ

J1横浜F・マリノスが26日、横浜市内で新チームバスをお披露目した。

04年から使用してきたバスの老朽化によるリニューアルで、トップチーム用は今回で3代目となる。デザインは今季開幕前のキャンプ時に選手らでも話し合って決めたといい、外装はこれまでの白ベースから黒ベースへと変更。赤、青、白のトリコロールカラーとともに、クラブエンブレムを車体中央に配置したシンプルなデザインとなった。

内装は3列、4列のコンビシートで2代目の29人乗りから5人増えて34人乗りに。シートはハイグレードシート仕様で人工皮革の座席へと生まれ変わった。

選手、スタッフらにもこの日が初公開。選手には新たに設置した携帯電話の充電などができるUSBポートが好評だった。MF天野純(27)が「かっこいいですね。試合に向けて雰囲気が出ると思う」と話せば、DF松原健(26)も「(2代目と)全然違いますよ。飛行機みたい。最高ですね」と新チームバスの完成を喜び、今後の戦いへモチベーションを高めていた。

2019/05/01 【横浜M】畠中槙之輔、DeNA・ヤクルト戦で始球式「ベストのピッチングができた」 : スポーツ報知

 横浜Mの日本代表DF畠中槙之輔(23)が30日、DeNA―ヤクルトの始球式に登場した。

 野球の硬式球を握るのは「初めて」にもかかわらず、直前に行った20球の練習のみで見事にストライク投球を披露。「サッカーとはまた違った雰囲気で緊張した。自分の中ではベストのピッチングができたと思います。貴重な経験でした」と笑みを浮かべた。

 次戦は令和初戦となる広島戦(3日、Eスタ)。開始時間が浦和―磐田と並び一番早いため(午後2時)、全ての記録が新元号初として後世まで継がれる“大一番”。「新元号初戦を完封で飾りたい」とディフェンダーならではの意気込みを示した。

2019/05/01 東京新聞:<財徳健治のマリノス・ウオッチング>「令和」に変革の成果を:神奈川(TOKYO Web)

 「昭和」が「平成」に変わった1989年、まだJリーグは誕生していない。日本サッカーリーグ(JSL)の時代だった。そのシーズンをマリノスの前身、日産自動車はリーグ、リーグカップ、天皇杯と3冠制覇した。

 迎えた平成5(1993)年、横浜マリノスとチーム名称を変え、Jリーグの開幕戦をライバルのヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)と戦い、勝利した。初年度の得点王はラモン・ディアスが獲得。2年後にはJリーグで優勝するなど平成初期のまぎれもない強豪は、日本代表を輩出した。しかし、次第に世代交代の波にのまれて低迷する。

 光が差したのは平成15(2003)年、ワールドカップ・フランス大会で指揮を執った岡田武史監督が就任し、2シーズン連続優勝を果たした。長期政権もあり得たが、フロントとの確執で4年目のシーズン早々に退任した。

 そこからまたタイトルとは無縁の時を過ごす。ようやっと平成25(13)年、天皇杯を21シーズンぶりに手にした。ただ、リーグでは残り2試合のうち一つでも勝てば優勝というチャンスがありながら逃して…。

 平成のマリノスを振り返るとき、最大の「事件」は平成10(1998)年、突然発表された横浜フリューゲルスの消滅とそれに伴うマリノスへの吸収合併だった。親会社の赤字という窮状があったにせよ、Jリーグ史上唯一の合併劇の一方の主人公になった。

 平成26(2014)年には世界的なサッカー事業グループ、シティ・フットボール・グループと提携。監督人選や補強選手選びなどで広く連携を図っている。平成27(15)年から3年指揮を執ったモンバエルツ監督、後を受けたポステコグルー監督もその流れによっている。

 目指すのは変革。「令和」になって、成果を問われることになる。

2019/04/27 マリノスも参戦!キャプテン・あぐのむ語るプロゲーマーへの偏見「人生をかけてeスポーツに取り組むしかない」 | ORICON NEWS

 “eスポーツ元年”と呼ばれた昨年10月、横浜F・マリノスがJリーグクラブとしては初めてeスポーツのプロリーグに参入。その初の所属選手となり、チームのキャプテンを務めているのがあぐのむ選手だ。現在24歳、オンラインカードバトル『Shadowverse』の腕を競い、日夜、鍛錬に励んでいる。eスポーツの認知度は広まりつつも、未だゲームに対するネガティブなイメージが払拭しきれていないのが現状だが、彼の言動や意識から感じられるものは、まさに“プロスポーツ選手”そのもの。プロゲーマー・あぐのむ選手の素顔、プロスポーツクラブが運営するチームの裏側に迫る

–【ゲーム実況付き】横浜F・マリノス所属 あぐのむ選手が語る『Shadowverse』に掛ける想い&覚悟


【熱闘eスポーツ#1】プロプレイヤーが語る『Shadowverse』に掛ける想い&覚悟、横浜F・マリノス所属 あぐのむ選手<ゲーム実況付き> – YouTube

–大学卒業を目前に控え、打ち込めるものは「やはりゲームしかない」

──まずは、あぐのむ選手のゲームに関するキャリアを教えてください。

あぐのむ選手 昔からカードバトルゲームが好きで、小学生の頃からゲームショップが主催する大会には出場していました。『Shadowverse』もリリース3日後くらいにはインストールしましたね。単純な勝敗よりも、ゲーム全体を俯瞰して、いかに勝ち筋につながるデッキを構築し続けるかという競技としての面白さにハマって、プレイを始めてから1ヶ月後には大会にも出るようになりました。

──現在は横浜F・マリノスとプロ契約をされていますが、アマチュア時代にはどのような活動をされていたんですか?

あぐのむ選手 アマチュアの大会に出たり、そこで成績を残せたりするようになってからはゲーム解説や動画配信などもするようになりました。そういった活動で多少の収入はありましたが、それだけで生活するのは厳しいかなという程度でしたね。大学生だったのでそれでも良かったんですが、卒業を控えて自分が打ち込めるものってなんだろう?と考えた時、「やはりゲームしかない」という結論に至りました。ちょうどeスポーツのプロチームが次々と立ち上がったという、僕にとっては幸運なタイミングでもありました。

──数あるプロチームの中でも、マリノスとプロ契約をした理由は?

あぐのむ選手 実はShadowverseのプロリーグ1stシーズンでも4つのチームのプロ募集があったのですが、すべて落選してしまったんです。その後、2ndシーズンで行われた2つのチームの募集に再チャレンジし、マリノスに選んでいただいたというのが本当のところです。

──アマチュア時代にかなりの戦績を残してきたあぐのむ選手でも、やはりプロの世界は厳しいんですね。

あぐのむ選手 そうですね。ただ結果的には、長年プロスポーツクラブを運営してきたマリノスに選んでいただけて良かったなと思っています。フィジカルやメンタルのサポートはもちろん、競技者への理解も深い会社なので、集中して競技に取り組めています。ちなみに報酬は月給制なので、生活も安定しています。

–プロ選手になり、勝敗へのこだわりに加えて「プロセス」を重視するように

──プロ契約から半年ほど経ちましたが、アマチュア時代とプレイの上で変わったことはありますか?

あぐのむ選手 アマチュア時代も競技としては取り組んでいましたが、今は試合以外のプレイでも“なんとなく”ということがなくなりましたね。1つひとつのプレイや選択肢がきちんと理由が付けられるものであるように、意識するようになりました。もちろん勝敗にこだわることも大事ですが、よりプロセスを重視するようになりましたね。プロとして恥ずかしくないプレイと言いますか。

──プロは強ければ良いというわけではない、ということですか?

あぐのむ選手 もちろん強さもプロには求められます。プロとして初出場した『RAGE Shadowverse Pro League 2nd』では、正直全く個人では活躍できず、『それでもプロか』といった批判の声も多くいただきました。プロとしてはそうした声も受け入れないといけないのですが、メンタル的に押し潰されそうになった時期もありました。

──まさにプロの世界に足を踏み入れたというか。そういったプロの洗礼をどのように乗り越えていったのでしょうか。

あぐのむ選手 チームメイトや運営スタッフの支えはもちろん、批判の一方で多くいただいた応援の声も励みでした。また、今では批判もポジティブに捉えています。声が多く上がるというのは、それだけ注目されている証拠なんだと。

–プロとアマチュアの一番の違いは、“応援される存在”でなければいけないということ

──では、強さ以外のプロの条件とはなんだと思いますか?

あぐのむ選手 プロとアマチュアの一番の違いは、“応援される存在”でなければいけないということだと思っています。僕自身、アマチュア時代にいろんなeスポーツ選手の記事や発言などを読みましたが、応援したくなる選手は強いだけでなく、発言や行動に何か惹かれるものがあるんですよね。それは、ほかのスポーツでも同じかなと思うのですが……。

──日本では他のスポーツと比べ、まだまだ一般的にはeスポーツへの理解が深まっていません。eスポーツシーンを盛り上げるためには、どんな取り組みが必要だと思いますか?

あぐのむ選手 どれだけ言葉を尽くしても理解してもらうのは難しくて、僕たちプロ選手としてはどれだけ真剣に人生をかけてeスポーツに取り組んでいるかという姿勢を見せていくことしかできないのかなと思っています。じゃあ、試合に来ない、配信も見ないという方たちにどう見せるんだ?という話になりますが、そこは本当にメディアの力をお借りするしかないのかなと。eスポーツが注目されている今は、チャンスでもピンチでもあって、取り上げていただけるメディアもこれからさらに増えると思うし、そこで僕らプロ選手がどう振る舞うかによって、eスポーツの見られ方も変わってくると思っています。ですから、選手の個性はいろいろで良いけれど、少なくともeスポーツの品格を貶める行為だけは絶対にしてはいけないと身を引き締めています。

文/児玉澄子

2019/04/29 『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:大島秀夫という生き方(横浜F・マリノスJY追浜コーチ・大島秀夫) | ゲキサカ

 忘れない。引っ込み思案でネガティブな性格のまま、大人の世界へ飛び込んだ勇気を。忘れない。キャリアのどん底からチャンピオンチームへ這い上がった奇跡を。忘れない。満身創痍の体で最後まで仲間のために走っていた姿を。19年間のプロキャリアをまっとうし、現在は“指導者3年生”。大島秀夫という生き方は、今日もサッカーという一番大事なモノと共に少しずつ、着実に前へと進み続けている。

 新しい環境が苦手だった。「こんなこと言ったら本当にまずいんだけど、選抜に選ばれないために選考会をわざと下手にしたりとかね(笑)」。もちろんプロになりたい気持ちはあったが、それはあくまで漠然としたイメージ。サッカーは楽しむもの。そこまでの強い向上心や意欲は持ち合わせていなかったという。

 ただ、その実力が“新しい環境”を余儀なく大島に突き付けていく。大きな転機は前橋育英高3年時の5月。市の選抜すら嫌がっていた少年は、U-18日本代表に選出される。「茨城国際ユースって大会で代表に初めて行って。東京駅集合で超ソワソワしながら(笑) 東京まで電車に乗ってお母さんが付いてきてくれたんだよ」。その時、衝撃的だった同い年が2人いた。1人は小野伸二。もう1人は同じポジションの高原直泰。「もう見とれちゃう感じ。『ヤベーな。この人たちと一緒にサッカーやったら絶対足引っ張るな』というイメージ」だったが、この邂逅で自らの意識が変化し始めたことはハッキリと自覚していた。

 1998年3月21日。その年のJリーグ開幕戦。18歳の誕生日を迎えたばかりの横浜フリューゲルスのルーキーは、横浜国際総合競技場のピッチにスタメンとして送り出される。「振り返るとあのスタジアムで、5万何千人の前でいきなりというのは凄いなって思うけど、当時は『ああ、こういうもんか』って感じで、すんなり受け入れざるを得ないというか、比較対象がないから『ああ、ホテルに集合してバス乗っていくんだ』みたいなね(笑)」。

 デビュー戦は横浜マリノスとのダービー。「試合内容は憶えてないんだよね。ファーストタッチをミスしたのは憶えてる。『ああ』って言ってる間にたぶん終わっちゃったのかなあ」。無得点のまま、後半13分に同郷の服部浩紀と交替でベンチに下がる。ちなみに同じくルーキーだった遠藤保仁はフル出場。他にも楢崎正剛、山口素弘、三浦淳宏、サンパイオと凄まじい選手たちがメンバーリストに名を連ねていた一戦だった。

 フリューゲルスの悲しい結末は、あえて言うまでもないだろう。「もう本当に他人事というか、訳が分からなかった。『チーム消滅ってなんだよ。大丈夫でしょ。なくならないでしょ』『ああ、なくなるんだ』『でも、オレらは京都に連れて行ってもらえるんだ』と、もう流れのままに」。伝説の天皇杯決勝はベンチに入っていた。「あの場にいられた、あの一員でいられたのは凄く財産。(吉田)孝行さんの素晴らしいゴールで優勝してね」。そんな大島のキャリアは、ここから波乱に富んでいく。

 京都パープルサンガでの2年目も終わろうとしていた2000年の秋。1枚の紙きれで、20歳の青年は職を失った。「面談の最初に『ちょっとオマエは甘い。厳しい環境に行って危機感持ってやらないとダメだ』と言われて、少し前にどこかの強化部長が来ていたし『じゃあ、あそこのレンタルかなあ』『いろいろなレンタル先を提示されるのかなあ』と思ったら、紙に“ゼロ”って書いてあって」。

 いわゆるゼロ提示。あまりに唐突で実感が湧かなかった。「だからウィキペディアにも載ってるけど、そのすぐ後でゲーセンに行って。今の教え子たちも『ゲーセン行ったんですか?』って聞いてきやがって(笑) でも、それはホント。ヤットとかとみんなで行ってたから。確か馬を育ててたかなあ」。

 セレクションの要項は渡されたものの、申し込むのも、電車の切符を取るのも自分。その段階でやっと事態の重大さを飲み込む。「オファーがなかったらもうサッカーは終わりだから、そのへんでやっとスイッチが入ったね」。必死に挑んだ練習会。いくつかのクラブを受けた中で、横浜FCとモンテディオ山形の合格を勝ち獲る。「昔だったら横浜FCを選んでいたかもしれないけど、話を聞いて『必要とされている方でもう1回頑張ろう』って思えたのが山形だった」。再起を懸け、未知なるみちのくの地へ仕事場を求めた。

 結果から先に明かせば、山形での4年間が大島の“職業欄”にプロサッカー選手と書くことを許してくれたと言っていい。「最初はロッカールームがなかったから、部屋にパイプ椅子が置いてあって、そこで着替えてって感じだったし、もちろん洗濯も自分だったけど、『もうやるしかない』と。ここでダメだったら本当に終わりだったし、当時のモンテはJの中でも一番下って感じだったから」。

 忘れられない試合がある。2001年3月10日。モンテディオの選手として初めて戦うJ2の開幕戦。相手は奇しくもパープルサンガ。「『見返してやる』って気持ちは強かったよ。『見てろよ』って」。大島は後半27分から途中交替で西京極のピッチへ投入されると、その11分後にコーナーキックからヘディングでゴールを陥れる。フリューゲルス時代から数えて4年目。これが彼のプロ初得点だった。「ディフェンスとの駆け引きは憶えてる。1回行くフリして止まって、相手が止まった瞬間にまた出て行って、前で触って。4年だもんね。『長く掛かったなあ』って思ったなあ」。

 この頃は自らの覚悟が明確になった時期でもある。「『やっとサッカー選手になった』って感覚。試合のために練習して、調整して、試合して。そのサイクルが凄く充実していて。そこを第一に考えられるようになったかな。ゲーセンは行ってたかもしれないけど(笑)」「以前は危機感で終わっていたのを、そこに対してアクションを起こして乗り越えるようになったというか、ちゃんと自分で行動できるようになったのかな。ちょっとずつでも何個も何個も積み重ねたもので自信も付けたかなって」。こう言葉を並べた直後。「ちょっと上手い言葉が出なかった。申し訳ない」と付け足すあたりが、何とも彼らしい。

 4年間で積み上げたゴール数は53。山形での毎日はサッカー面での充実はもちろん、生活面でも多くのことを学んだ日々だった。「ある歯医者の先生にお世話になって、ゴハンを食べに行ったり、一緒にどこか行ったり、サッカーだけじゃなくて人間的な所でいろいろアドバイスもくれたし、あとは良いチームメイトに恵まれたよね。土地への愛着もメチャクチャある」。そんなJ2でも屈指のストライカーへと成長した大島に、ビッグクラブが食指を伸ばす。

「天皇杯でマリノスとやった時に、岡田(武史)さんが『いい』って言ってくれたらしくて。実はオファーをくれたのは三島さんって、オレがフリューゲルスに入った時のスカウトなの。それで、また三島さんから話が来たのもそうだし、その時は2連覇してた時で、『あのマリノスから!』ってメチャクチャ嬉しかったなあ」。モンテディオでJ1へという気持ちは強かったが、最後は自身のチャレンジしたい気持ちを貫いた。20歳でクビを言い渡されたストライカーはその4年後、J1王者の一員になるまでの劇的なステップアップを果たす。「『もし試合に出られなくても、行ったら得るものがあるよな』って。『そこにチャレンジしなくてどうするんだ』って。絶対昔だったら思わなかったけど、そういう意味では自信はあったんだろうね」

 1年目からJ1で9ゴールを叩き出した大島だったが、2007年は自らも認めるキャリアハイのシーズン。「それこそボンバー(中澤佑二)がいたり、マツさん(松田直樹)がいたり、(栗原)勇蔵がいたり、という中で練習してたけど、もう楽しかった。それは自分がやれるから」。その年のリーグ戦で記録した14ゴールは日本人選手で最多。一躍彼の名は多くのサッカーファンの知る所となっていく。

「表にはそんなに出してないけど、メチャクチャあった」と振り返るのは日本代表への想い。「だけどやっぱり(イビチャ・)オシム監督で、『基準がオレ向きではないから難しいだろうな』って。たぶん結果とかじゃないでしょ、あの人の選ぶ基準って。『オレは運動量が少ないからな』って(笑) でも、その時期だったら『全然やれるな』という想いはあったよ」。

 ところが、翌年は“暗転”のシーズンとなる。「春先の試合でキーパーと激突して膝の骨が凄く痛くて、そこからバランスがおかしくなって、全然体の調子が良くなかったね。そして、マリノスを去るっていう。たぶん構想外。良く言えば『“ゼロ”にしてあげたら移籍しやすい』という当時の流れかな」。F・マリノスに在籍したのは、モンテディオとまったく同じ4年。キャリアを遡れば、この“4年×2”が最もサッカー選手として輝いていた時に当たるのかもしれない。

 個人的に“もしも”と思っていたことがあった。2007年12月。オシム監督の病気による退任を受けて、岡田武史が日本代表の指揮官に就任する。「もしも、あの“14ゴール”が1年遅かったら…」。あえて本人にぶつけてみると、珍しく口調が速くなった。「メッチャ思うよ。メッチャ思うし、つくづくそういうのにオレは運がないっていう。例えば今の時代だったら、海外っていう視野もあったと思うし。タイミングが悪いんだよね」。すぐに柔和な笑顔が隠したが、この一瞬に滲んだ本音は強く印象に残った。

「オレは良いプレーができた記憶があまりないから。点もあまり取れなかったし、チームのためになりたかったな。心残りはある」。アルビレックス新潟で2年半。ジェフユナイテッド千葉で半年。コンサドーレ札幌で1年。合計で4年間を過ごしたいずれの地でも、結果という意味での貢献はできなかった後悔があるが、札幌の地では望んだ“再会”を果たしている。「また河合竜二さんとサッカーができたのは嬉しかったね。竜二さんはF・マリノスの頃から仲良くて、人見知りのオレは同年代だったから話すようになって。そこは楽しかったな」。

 2013年。かつてモンテディオで指導を仰いだ柱谷幸一監督の誘いを受ける形で、大島は自身8つ目のプロクラブとなったギラヴァンツ北九州へ移籍する。そしてここでの4年間が、新たなサッカーとの関わり方を彼に芽吹かせていく。

「まだ整備されていないちっちゃいクラブだったから、“チームを良くしていくための自分”って考え方でやっていたというか、もちろんサッカーで自分が活躍してというのもあったけど、そうじゃない立ち位置の時に何ができるかって。それがベテランの1つの存在意義で、何かしら若いヤツに気付かせたり、クラブに『もうちょっとこういうことを』とか要求したり、『少しでも良いクラブになっていくための何かになってくれたらなあ』っていう感じかな」。

 置かれた役割を突き詰めていく内に、照らされてきたのは自身の未来。「言い方は悪いかもしれないけど、北九州に入ってくる子たちのレベルや意識を見ると、『もっとこうした方がいいよ』とか『こうするべきだ』と思うことがあって、それを伝えたり、アドバイスしたり。その中でそれが実際に現れる喜びもそうだし、そういうことに興味を持っていった中で『ああ、指導者になりたいな』って思うようになったのかな」。

 見えてきた“これから”に対して、見つめるべき“今”は自らのイメージとどんどん乖離していく。「北九州での2年目、3年目ぐらいからは、ちょっとずつ引退も考えたね。『ここで終わりだったらキャリアは終わりだな』と思ってたし、最後の年はケガも治らなくて、実はシーズン前からもう決めてた。『これはもう無理だな』って」。

 2016年、秋。クラブから来季の契約はない旨を伝えられた。「そこで正式に嫁さんには伝えて。上の息子は結構ふざけたヤツだから、『もう早くやめちゃえ』みたいに言ってたけど、内心は『絶対やめてほしくない』とか、『サッカー選手じゃなくなるのは寂しい』とか思ってたんじゃないかな。でも、『やめたら他のお父さんみたいに土日遊べる!』とか思ったかもしれない。実際は全然。さらに遊べなくて申し訳ないって(笑)」。

 12月9日。『大島秀夫選手 現役引退のお知らせ』がリリースされる。積み重ねた公式戦の数字は574試合111得点。タイトルには縁がなく、日の丸ともすれ違いながら、ただひたすらにボールを追い掛け続けた大島秀夫が、19年間に渡って積み上げてきた“プロサッカー選手”という誇るべき肩書に穏やかな、それでいて確かな終止符が打たれた。

「やり切った感じがあるから、そんなに“もぬけの殻”って感じにはならなかったかな。もう年俸が現わすように、ガーッて上がって、ガーッて下がっていったから、自然と受け入れられた。現実な話として家族を養わなきゃいけないし、自然とそういう流れだなって。たぶん現役が長かったからそう思えたし、その準備も数年前からできていたから。でも、指導者になって1年目はグラウンドに立ちながら、急に胸がキュンとすることとかあって。『ああ…』って。それは年に何回かあった。『もうあの舞台に立てないんだ』とか『もうあの感覚を味わえないんだ』とかね。そういうのって急に来るんだよ。グラウンドにいると切なくなる時もあったね」。

 引退した翌年。大島にはJリーグ功労選手賞が贈られた。「オレより周りの方が喜んでた。ギラヴァンツとモンテとF・マリノスと連名で推薦してくれたらしくて、それは凄くありがたかった」。決して派手なキャリアではないが、彼の19年間がきっちり形として評価された気がして、本当に嬉しかったことを思い出す。ちなみに、このエピソードには後日談が付く。「功労選手賞をもらったけど、その次の年からできた制度だと功労金が300万出るって聞いた時に『えっ!』って。『オレの時まで出なかったのかよ!』って(笑) 運がないんだよね。タイミングが悪いんだよ」。その話が何とも彼らしく、ついつい笑ってしまったことも個人的には大事な思い出だ。

 何度か前述したように、大島は既に指導者としてのセカンドキャリアを歩み出している。日産自動車追浜総合グラウンドが今の“ホームグラウンド”。中学生とサッカーに向き合う日々は、この4月で3年目を迎える。まだ寒さの残る春先の追浜に彼を訪ねた。少し遠めからグラウンドを眺めると、独特の歩き方ですぐに居場所がわかる。それほど言葉数は多くないが、必要なことを的確に、わかりやすく子供たちへ伝えていく。そんな姿を見ている内に、改めてもう大島が“プロサッカー選手”ではなくなったことを実感した。

「最初の頃より、指導も自分の中ではちょっとずつ整理できているかなとは思う。でも、10年やっている人も20年やっている人も、たぶんコレで完成形というのはないだろうし、サッカーも変わればいる人も変わるし、毎日が、毎年が勉強というか、そういう気持ちでやっていかないといけないなあってつくづく思うかな」。

 この日のトレーニングは新2年生の担当。13歳の眼差しは真剣で、まっすぐだ。それゆえに指導者が負う責任も決して小さくない。「やっぱり自分の言葉が直接返ってくるというか、サッカーに対しても普段のことに対しても、自分が整理できていないとそのまま現れるから、凄くそういうのは責任を感じるかな。この純粋な、かわいいヤツらだからこそ、ちゃんと成長させてあげないといけないなって」。

 思い出したかのように、大島がこう呟く。「たまに夢を見るんだ。自分が現役の時の。『アレ、復帰した?』って(笑) たまにね」。聞いてみたくなった。「ゴールとか決めてるの?」。小さく笑って首を振る。「しない。全然活躍しない(笑) そこはなぜか動けないオレだってわかってるの。『オレ、なぜか現役だな』って。『でも、ゴールは無理だな』って(笑) 潜在的に残ってるんだろうね。あの頃の感覚が」。どこまでも彼らしいエピソードだと思う。ただ、そんな彼だからこそ、きっと今まで周囲の仲間から多くの愛情とサポートを受けてきたのだろう。そして、これからも彼の周囲には常に愛情とサポートを注いでくれる仲間がいるであろうことも、何の疑いもなく確信している。

「サッカーって何なんだろうね」。あえてザックリと問い掛けてみる。「何だろうなあ。難しい。サッカーの中って何でも詰まってるからね。喜怒哀楽とか。選手だったら自分で掴み取ったものの充実感もあったし、何より一番はサッカーだからかわからないけど、いろいろな人との繋がりが一番大きいというか、嬉しいというか、大事かなあ」。その言葉を照れ隠しで覆いかぶせるように、こう付け足した。「ちょっと答えにならなかったなあ。まとまらなかったねえ(笑)」。やっぱりオーシはオーシだった。

 忘れない。引っ込み思案でネガティブな性格のまま、大人の世界へ飛び込んだ勇気を。忘れない。キャリアのどん底からチャンピオンチームへ這い上がった奇跡を。忘れない。満身創痍の体で最後まで仲間のために走っていた姿を。19年間のプロキャリアをまっとうし、現在は“指導者3年生”。大島秀夫という生き方は、今日もサッカーという一番大事なモノと共に少しずつ、着実に前へと進み続けている。

■執筆者紹介:土屋雅史

2019/04/30 番記者が選ぶ、平成の横浜F・マリノスベスト11! J1連覇メンバーに中村俊輔、川口能活の錚々たる顔ぶれ | サッカーダイジェストWeb

【ベスト11選出理由】
 錚々たる顔ぶれがずらりと並ぶ。悩ましい人選となった右サイドは、J1連覇に貢献した佐藤を選出。伝統の堅守を実現でき、さらにはセットプレーで強さを発揮できる選手が揃っている。

【横浜F・マリノスの平成史】
 Jリーグ創設時の「オリジナル10」にして、鹿島とともにJ2降格の憂き目に遭っていない2クラブのうちのひとつだ。93年から今季まで27季に渡って1部に留まり、日産自動車サッカー部時代から受け継がれる名門としての面目を保ち続けている。

 これまでのJ1(Jリーグ)制覇は通算3回で、お世辞にも多いとは言えない。平成時代におけるハイライトは、岡田武史監督が率いていた03年と04年のJ1連覇だろう。個性的な日本人選手に加えて外国籍選手もリーグ屈指のレベルにあり、文字通りのタレント集団を誇っていた。

 その後のタイトル獲得は13年シーズンの天皇杯優勝だけと寂しいものだが、ピッチ外を含めた話題性や影響力は常にリーグでも屈指。その最たる例が14年にシティ・フットボール・グループと結んだ資本提携で、外資を受け入れたJリーグで最初のクラブとなった。

 クラブハウスの移転問題や中心選手の流出など近年は課題も少なくない。こうしたネガティブなニュースも大きく取り上げられるのは、知名度が高いクラブゆえのある種の宿命だ。令和時代は、まずはリーディングクラブとしての威厳を取り戻したい。

取材・文●藤井雅彦(ジャーナリスト)

 
 

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