夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノスまとめ(2022/3/8) #fmarinos


夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2022/3/8(火)サッカー専門サイトも横浜F・マリノスに注目(記事多め )
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Instagram
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

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今日の練見(れんみ)

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Webニュースログ

2022/03/07 古巣を見返してやると思っていたけれど……移籍を繰り返した水沼宏太の心の中【サッカー、ときどきごはん】 : J論プレミアム

■水沼宏太はなぜ移籍を繰り返したのか?

最初横浜F・マリノスに入ったときって、こんなにいろんなクラブに行くとは正直、思ってなかったですね。

自分の中ではマリノスで最初から試合に出られるぐらいの自信を持って2008年にプロになったんです。結局、マリノスから栃木、鳥栖、FC東京、セレッソと4クラブでプレーして、2020年にマリノスに戻ってきましたから5回移籍したことになります。

一番最初の移籍は2010年、20歳のときですね。3年目の夏に栃木SCに行ったのが最初だったんですけど、自分の世代は2012年にロンドン五輪があって、自分も年代別代表に選んでもらってて、五輪は何としても出たいと思ってたんです。

2007年、高校3年生のときにマリノスの2種登録選手として3試合に出場してました。そのころマリノスは高校生でリーグ戦に出てる選手が全然いなくて、僕が初めてぐらいだったと思うんです。だから「これはプロになってずっと練習してたら試合に出られる」という感覚になっちゃったというか。何も知らない自分はそう思ってました。

でもいざプロになってみると、そんなに甘くないというのをはっきり見せつけられました。なかなか試合に出られなくて、プレーしてないと五輪代表に選ばれないだろうっていう気持ちがあったんですよ。

やっぱり試合に出る環境に行かなきゃとも感じてたし、移籍について悩んでた時期にちょうど2010年南アフリカワールドカップがあって、その日本の試合を見て決断したんです。

ベスト16で日本がパラグアイにPK戦で負けて、「サッカー選手を目指してやってきてサッカー選手になって、次の自分の目指すべきところはここだ」って。それなのに自分は全然プレーしてなくて「何やってんだろう」「やっぱり試合出たい」「出る保証はないけど、環境を変えて自分を変えたい」、そんな気持ちになって決断したんです。そのときのことは今でも鮮明に覚えてます。

父(水沼貴史氏)がずっとマリノス一筋でやってきたのを見てたので、自分の中では外に出ていくという想像もできてなかったですね。でも、それよりもプロとして生き残れるかどうか試されてる時期だっていう危機感を持ってました。

栃木SCからは2009年にもオファーをいただいてたんです。そのときは同じ関東のクラブなんですけど、正直全然栃木がどういうクラブなのか知らなかったし、誰がいるのかも分かってなかったんです。

でも2010年は「俺は栃木でやる」「栃木で絶対結果残してやる」「栃木に行ってダメだったら俺は終わる」という気持ちで移籍しましたね。プロサッカー選手としてずっとやっていきたい、日本代表になりたいっていう気持ちがあって、そこを考えると、腹くくるじゃないけどプライドを全部捨てて行ったというのはあります。

今でも覚えてるんですけど、2010年の夏、ワールドカップ期間のリーグ戦中断中に栃木はミニキャンプをやってたんです。そこに直接行って、夜到着してから全然友だちもいない中で挨拶して、「頑張ろう」って思った記憶はハッキリあります。「もうやるしかない」って。

「環境は悪いよ」って最初に栃木の強化の方から言われてました。悪いとは言われつつも、どれくらいのレベルなのか全然想像してなかったんです。当時マリノスはマリノスタウンがあって、体一つで練習場に行けば全部揃ってる環境だったんですよ。

それでいざ栃木に行ってみたら、練習場所はいくつもあって毎日のように変わるし、人工芝の練習場もあるし、スパイクも練習着も全部自分自己管理で、家に帰ったら自分で洗濯するという環境だったんで「こういうことか」と思いました。

思いましたけど、今となってはあれを経験できたからここまでプレーできていると言っても過言ではないぐらい、本当に素晴らしくよかったと思ってます。練習着を洗濯するなんて1回もやったことなかったし、ユースのころまで実家で母にやってもらってましたから。そういうことに感謝の気持ちが芽生えてきたり、いろいろ感じることができました。

ところが栃木に移籍して一番最初の試合でいきなりケガしたんですよ。軽かったんですけど、もうダメだって思いました。ただ、治ってからずっと松田浩監督(現・V・ファーレン長崎監督)に1年半ほぼフルで使ってもらって。そこで少しは自信を取り戻せたというか、ようやくプロとしてやっていけるんじゃないかって気持ちになりました。

2010年はロンドン五輪チームの立ち上げの年で、栃木に行ってすぐアジア大会があったんです。ロンドン五輪を狙うチームと言ってもJ2の選手、J1で全然出てない選手、大学生の選手で結成されてたんですよ。世間的には優勝なんて誰も思ってなかったんですけど、優勝することができたんです。僕も栃木の選手として選ばれて、自分の価値をもう1回見せつけることができた大会でもありました。

そのころは期限付き移籍だったんですけど、マリノスに帰ることよりも栃木で結果を残さなきゃいけないという感じだったんで、自分はこのチームの人間なんだと思ってやってました。

2011年、栃木での2年目はJ2リーグで37試合に出場したんですが、期限付き移籍期間が終わった時点でマリノスはそんなに「帰ってきてほしい」という感じじゃなかったんです。僕はとにかく「自分を変えたい」「もっとタフになりたい」「もっと強くなりたい」と思って海外行きを模索しました。トライアルって形でしたけど、ルーマニアに行って、あるチームと契約寸前までいったんです。

「契約するよ」って言われて「ここで戦って絶対もっと上に行ってやる」っていう気持ちになってたんですけど、結局移籍期間ギリギリ、最後の最後の日に「契約しない」って言われて、「え?」って。一応マリノスとの契約は残っていたんですが、どうしようと思っていたら、サガン鳥栖が声をかけてくれたんです。

鳥栖は僕がルーマニアに行ってるのを知ってて、「もしダメだったら来てください」って最後まで待っててくれたんです。そして自分を助けてくれたというか、受け入れてくれたんですよ。

2012年はちょうど鳥栖がJ1に上がった年で、初めてのJ1挑戦という状況で自分を呼んでもらったということもあって、気持ちを「よし、J1で戦ってやる」って切り替えて、ルーマニアから帰ってきてそのまま鳥栖の沖縄キャンプに行きました。

尹晶煥監督(現・ジェフ千葉監督)の下で初めて3部練を経験しましたよ。朝6時半に集まって走ったり縄跳びなんかいろいろやって、午前中はフィジカルトレーニングやって午後サッカーやってみたいな。夜、さらに筋トレやらされる人もいて、もう本当に鍛えられましたね。

僕や金民友は年齢がチームの下のほうだったけど試合に出してもらってたので、余計にガツガツ喝入れられながらやってました。この経験が今にも生かされてるし、本当に感謝してます。

当時の鳥栖はJ1に上がったばっかりだったから、環境がまだ全然整ってなかったですね。今は立派なクラブハウスが建ってますけど、そのころはプレハブの1階に小さな筋トレルームみたいなのがあって、ミーティングもそこでやって、上で着替えて外に出てってコインシャワーでした。大雨のときは最悪でした。下もドロドロで。

でも栃木を経験してたんで、J1のチームとはいえ同じような環境でやるのは何も苦にならなかったし、むしろハングリー精神を持った選手たちばかりだったので、2012年は降格候補だったのに5位という、本当にいい結果を収めることができました。

それまでマリノスでJ1には何試合か出てましたけど、自分としては初めてのJ1挑戦というぐらいの気持ちで臨んだシーズンでしたね。本当にめちゃくちゃ楽しかったし、もっと成長したいという気持ちにもなったんですよ。

ロンドン五輪は、最終予選に招集されたし、大会前のフランスで行われたトゥーロン国際大会までは行きました。ですが結局、目標にしてたロンドン五輪本大会には行けなかったんですよ。本当に落ち込みましたけど、それでもすごく充実した2012年シーズンでした。

当時、まだマリノスとの契約があったんです。ただ「帰ってきていいよ」という感じはなくて「好きにしていいよ」という雰囲気に思えたんですよ。だから「今、本当に必要としてくれるところで最大限頑張ろう」って、2年間の期限付移籍が終わった後、鳥栖に完全移籍してもう2年間プレーしました。

助けてもらった鳥栖は本当に大好きなチームになりましたね。サッカーだけができる最高な環境だったし、すごくゆっくりできて、あの街が大好きで、本当に居心地よくて最高でしたね。

それでも2016年にFC東京に移籍したんです。自分の中でもっと成長したいというのもあったし、居心地は良かったんですけど、自分の性格としては刺激がほしくて。そこでちょうどいくつかオファーをもらった中で、城福浩監督がいたFC東京に決めたんです。

2016年はACLに初めて出たし、J1の試合にも出たし、FC東京はJ3にU-23のチームを持っていたのでJ3でプレーすることあったし、本当いろんな大会に出ることになったんですよ。

アジアの大会に出たかと思えば、すぐJ3に行ったりとか、なんか気持ちがグチャグチャになったりしました。けれどあれはあれで本当にすごくいい経験だったし、自分の反骨心みたいな気持ちを奮い立たせながらやれたのは新しい刺激にもなったし。「絶対負けねぇぞ」って気持ちもあったんで、本当に濃い1年になりましたね。環境を変えることで自分が成長するんだと感じたシーズンでした。

ただ2016年は悔しい思いもしたんです。それを他のチームが見ていてくれてオファーを出してくれました。その中で自分が一番成長できそうとか、わくわくするのがちょうどセレッソ大阪だったんです。尹さんが監督になりそうでしたけど、尹さんの就任の少し前ぐらいからお話をもらってて。

結果的に尹監督になって、ちょうどよかった感じがあったんすけど、他にもセレッソには柿谷曜一朗だったり山口蛍だったり、あとから清武弘嗣も復帰が決まって、同年代の選手がたくさんいたんですよ。

だから結構楽しそうだというのもあったし、初めて行く関西にもおもしろそうだというのもあったし。セレッソでもすごく周りの人たちにも環境にも恵まれましたね。セレッソは本当に充実した環境が整ってますし、大阪の中心にあるクラブなので、これまでの栃木や鳥栖と同様で大好きな街になりました。

大阪はガヤガヤしてるイメージありますけど、場所を選べば全然そんなことなくて、すごく住みやすい場所でした。この前のシーズンオフも久々に家族で大阪に行ったりしたんです。僕が結婚して入籍したのが大阪にいた年だったんで、妻とも思い出の地になってるんですよ。

セレッソで3年経った2019年の終わりに、マリノスからオファーが来たんです。正直、2010年にマリノスを出た最初のころは「見返してやる」「絶対に負けたくない」という気持ちがありました。けれど、10年経つと何かそんな気になれないというか、「かっこいいなぁ」とかそんな感情で見てて。やっぱり僕には、小さいころから憧れのチームだったし、サポーターの雰囲気とかユニフォームがかっこいいと思ったりしてたんです。

2019年にマリノスが優勝したとき、僕はセレッソでしたけど「マリノス強いな。優勝するだろう、これ」みたいな、何か客観的に見てる感じだったんです。そうしたらそのオフに代理人からいきなり「オファーが来るかもしれない」って言われて、「えっ? ウソでしょ?」「なんで優勝した次の年に、俺?」と思ってたんですけど、でもすぐオファーが来たんです。「うわっ、本当に来た」って。

やっぱり心のどこかに自分が育ったクラブ、このチームって自分の中で特別なんだっていう気持ちが出てきて。「これは、何かの縁」「優勝した次の年にまさかマリノスが自分を見てくれて、ほしいって言ってくれたって、こんなことないぞ」みたいな。そこから湧き上がってきたのは今までにない感情だったんです。

一言で言えば「うれしい」だったんですけど、そのときのセレッソで自分の置かれた状況や、セレッソにも救ってもらったという恩もあったのですごく悩みました。でもやっぱり10年経って自分が認められたというのがすごくうれしくて、「やってきてよかった」って思って。

「今だったら絶対マリノスでも活躍できる」という自信もあったんです。それに「これを逃したらもう二度とオファーなんてもらえないかもしれない。この自信を今、ぶつけるときなんじゃないか」と思って決断しました。

帰ってきたらマリノスというエンブレムを背負って戦うってことには変わってないんですけど、もう周りの環境やスタッフはマリノスタウンのころとまるで違ってましたね。だから何か新しいチームきた感じが正直ありました。だけど会社に挨拶行ったときに、昔、栃木に行くときにお別れの挨拶をした人たちが結構残ってて、すごく歓迎してくれて。「お帰り!」「宏太じゃん!」みたいな感じで。

20歳だった自分が30歳になって帰ってきて、すごく迎え入れてくれたんです。だから会社で挨拶したときはすごくうれしかったですね……はい。そこでやっぱりここはマリノスなんだって感じました。

■不思議な偶然…愛用アプリがチームスポンサーに

一つのクラブでずっとやってくとお金のこともある程度予想できて考えられると思うんですよ。でもいろんなクラブに行くといろんな状況があり、場所によって生活にかかる費用は変わってくるし、いろんなことを考えなきゃいけないんです。だから管理をちゃんとしようと思ってました。

セレッソにいたときに山口蛍と2人ご飯食べに行って、そのあとコーヒー飲みながら、なんでそうなったか分かんないけど家計簿の話になったんですよね。それで2人で調べて「このアプリ、なんかよさそうじゃね?」みたいな感じになったんですけど、それが「マネーフォワード」だったんです。だから僕は結婚する前の2017年から「マネーフォワード」使ってるんです。

「マネーフォワード」って銀行だったりカードだったり、いろいろ連携させてデータが全部入ってくるアプリなんです。それこそ生活費が一発で分かるんですよ。楽しみながらやってました。蛍が今もやってるか分からないですけど(笑)。

家計簿を見て何かに役立てようというのは正直なかったんですけど、「こういうものにお金使ってんだ」「ということは自分はこれが好きなんだ」とか分かったんですよ。僕は結構服が好きで、よく買いに行ったりするんで、そういうものが分析されて出てきたりとか。

自分が頑張って受け取ったもので自分の好きなものを買うっていうか、そういうのはやっぱり重要だと思うし、その中でも生活していく中で必要なものとかを把握するってのも重要だし。

そういう自分の生活リズムとか、それこそ何日に何が引き落とされるのを自分で把握する能力を持たないといけないのが分かったっていうか。アプリを見れば一発で7日に水道代の支払いがあると出てくるんで、自己管理するっていうのは大事だって改めてそこで知ったというか。

そういう管理は社会人として大事なことだと思ってたし、家族ができたらより重要になってきましたけど、でも1人のときからそういうのを分かっておくことは大事だし、ただサッカーやってるだけじゃしょうがないという感じです。

お金の管理についてサッカー選手が知らなすぎかもしれないんですけど、こういう便利なアプリが出てきているので、これからはサッカー選手であっても自分でお金の管理を学んでいく時代になったのだと思います。このアプリがあれば、自分のお金の出入りが一目で把握できるので、ホント、オススメしたいです。

でも「マネーフォワード」が検索で最初に飛び込んで来なかったらやってなかったと思います(笑)。人にも勧めてますけど、本当にちょうど最高に便利なあのアプリと出会えて、僕はよかったですよ。

だからこそ「株式会社マネーフォワード」さんがマリノスのスポンサーになるって聞いて、「え? これあのアプリじゃん」ってなったんです。こんな偶然ってあります?

愛用してるアプリの会社が自分のチームのスポンサーになったんですよ。何か、すごい誇らしかったというか、「これ前から使ってるけど!!」って。しかも自分が戻ってきた後ですからね。偶然にしてもそう思えないくらいすごいなって。

自分が戦うユニフォームのパンツにアプリのロゴがあるんで、ウワーって興奮しました。僕が思っていた以上に人気があるアプリで、大きな会社だったんですね。「大人気なんだ、そりゃ短パンにつくわ」みたいな。

「ありがとうございます」みたいな感じで、僕はプレミアム会員になって月額払ってます。なんか「マネーフォワード」さんの「案件」みたいになってるんですけど全然そうじゃないです(笑)。でも本当に最高に便利なアプリだと思っているんです。

これでお金は管理できてるんで、あとは目標をどう自分で管理していくかですね。僕は現役をやれるだけ続けたいというタイプで、ボロボロになるまでやりたいといつも思ってます。この先何年できるか分からないですけど、でも1年ごと悔いなく全力でやりたいし、それは今までやったことでもあります。

31歳になったんですけど、サッカー選手である以上、日本代表にもなりたいし、海外でもサッカーやりたいという気持ちもあるし、いろんな気持ちがバーッて出てきたりもします。

でも今マリノスの選手としてやってるんで、大好きなマリノスで、とにかく優勝したいっていう気持ちが一番です。その中で自分が活躍すれば、きっと代表も見えてくると思うんで。サッカー選手である以上、いつまでも高い目標を持って、高み目指してやっていきたいと思います。

■ナポリから仕入れるトマトが乗ったピザをよく食べていた

横浜に帰ってきたんですけど、コロナ禍なんで外食に行けてないんですよ。もう一度横浜を散策したいので早くコロナ禍が収まってほしいですね。だから今回は大阪とか鳥栖のレストランを紹介しておきますね。

大阪だったら他の選手と結構行ってたイタリアンの店が大阪市福島にあるんです。「ピッツェリア パポッキオ 福島本店」って店で、ピザがめちゃくちゃおいしいです。結構その日によっていろいろ違うピザが出てくるんですけど、ナポリから仕入れるトマトが乗ってるピザは、セレッソの仲間とよく食べてましたね。

あと福島には焼肉屋さんでも大好きなとこあるんです。「和牛焼肉 布上」のホルモンは絶品です。その辺では爆発的な人気のおでん屋さんもあります。「花くじら 本店」っていう店で、大阪の人に「おでん食べたい」って言ったら、多分連れて行かれると思います。あそこのおでんは本当にめちゃくちゃおいしいから。この時期本当に寒いんですけど外で食べるおでん、おいしいです。めっちゃ並んでるんですけど。

鳥栖は「奏味創彩 えんや」ですね。和食屋さんなんですけど、すごい栄養管理されてて、僕たちが行ったときには選手用のご飯を出してくれたりしてました。でも他の普通の一品料理とかもすごくおいしいんですよ。大将はすごく見た目があの、ちょっと、強面な感じなんですけど、でも味は優しくてすごくおいしいんです。だからめっちゃくちゃ行ってました。

どこもおいしいので、近くにいった際には寄ってみてくださいね。

 
 
2022/03/07 5試合で23人が先発、横浜FMが持つ強みは“ポジション”に捉われない戦い方と“一貫性”/編集部コラム【超ワールドサッカー】

Jリーグ開幕から2週間が経過。新型コロナウイルス(COVID-19)のクラスターにより一部チームは活動停止に追い込まれたが、おおよそのJ1クラブが5試合を消化した。

開幕から週2回の試合開催を続けてきた中で、カップ戦を戦ったチームはどのチームも思い切ったターンオーバーを敢行。YBCルヴァンカップでは若手や控え組を積極的に起用し、週末のリーグ戦で主軸選手を起用するという形がおかった。

ここからは基本的に週1回の試合開催となり、一息つけると言ったところだろう。

しかし、4チームだけがリーグ戦を5試合消化という過酷な試練を受けていた。AFCチャンピオンズリーグ(ACL)に出場する川崎フロンターレ、浦和レッズ、横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸の4チームだ。

神戸は15日に控えるプレーオフでメルボルン・ビクトリーに勝利しなければ本大会への出場は叶わない状況だが、この4チームの成績は対照的だ。

川崎フロンターレと横浜F・マリノスは3勝1分け1敗の勝ち点10。横浜FMが首位に立ち、2位に川崎Fがつける状況。浦和は6日に行われた湘南ベルマーレ戦で初勝利を記録も、団子状態のおかげで7位に位置している。

そして心配なのが神戸。未だ勝利なし、3分け2敗で16位と低迷中だ。セレッソ大阪、湘南ベルマーレが1勝でもすれば最下位という状況。勝ちきれない苦しさを味わっている。

◆圧倒的なターンオーバー

当然この4チームは、リーグ戦を5試合戦ったこともあり、同じメンバーで戦うことは不可能。他の14クラブがカップ戦で大幅なターンオーバーを行っているが、それをリーグ戦でやるのだから簡単ではない。

14チームの中で、リーグ戦に限って先発をした選手が最も多かったのは16人の湘南。最も少ないチームは12人の北海道コンサドーレ札幌だった。

一方で、ACL組の4チームでは川崎Fと浦和が18人、神戸に至っては21人が先発をすでに経験している。しかし、最も多いのは横浜FMで23人が先発出場をすでに果たしているのだ。

大事なリーグ戦を戦いながら、圧倒的にターンオーバーを採用している横浜FM。もちろん試合数が違うので比較はできないが、それでも5試合を戦って現在暫定首位。しっかりと結果を出しているのだから驚きだ。

21人の選手が先発した神戸が16位と低迷していることからもわかるように、多くの選手を入れ替えるとチームは機能しにくくなる。選手個々の力の差、そしてシーズン開幕から間もないことで、新加入選手のフィットがまだ足りていないこと、コンディションの問題などもあるだろう。往々にして起こりうる現象だが、横浜FMには関係ないようだ。

復帰組を除き、新加入の選手で先発していないのは、ユースから昇格した西田勇祐のみ。また、FWアンデルソン・ロペスは5試合で2得点、FW西村拓真は3試合で2得点を記録するなど、目に見えた数字も残している状況だ。

◆強さの秘密は“一貫性”

3連覇を目指す王者・川崎Fですら、新加入選手ではタイ代表MFチャナティップと流通経済大学から加入したDF佐々木旭が先発しているが、MF瀬古樹、MF松井蓮之、MF永長鷹虎、FW五十嵐太陽は起用されていない状況だ。

チャナティップこそ5試合連続で先発し、徐々にフィットしている感はあるが、まだまだ本調子とは言えない状況だ。

しかし、横浜FMは新加入選手も積極的に起用し、控え選手を起用しても結果を残せている。その理由は、チームの“一貫性”だ。

横浜FMは、2018年にアンジェ・ポステコグルー監督(現セルティック監督)が就任してからチームが変化。アグレッシブな戦い方と、サイドと中央をミックスした攻撃を武器に、前線からのハードワークとハイプレス、そして最終ラインが圧倒的なハイラインを敷き、後方の広大なスペースをGKが埋めるという超攻撃的な戦い方を見せている。

2年目の2019年にはリーグ優勝を果たすと、3年目は9位に沈んだが、2021年は再び上位争いに。しかし、夏にセルティックからのオファーを受けて退任。同じオーストラリア人のケヴィン・マスカット監督が就任すると、最終的には2位でシーズンを終えていた。

ポステコグルー監督が3年半で築いてきたサッカーをさらに推し進めるために招へいされたマスカット監督。より攻撃的になる片鱗を昨シーズンの終盤に見せていた。

そのスタイルは今シーズンも変わっておらず、攻撃的なサッカーを武器にすでに11得点を記録。川崎F戦では大量4得点を記録するなど、その破壊力は健在だ。

こうしてチームのスタイルを継続していることが、1つ好調の要因と言えるだろう。

◆ポジションを気にせず、タスクを遂行するスタイル

そしてさらに大きな要因は、ポジションに捉われないサッカーを行っていることだ。

前述の戦い方のベースに加え、横浜FMの大きな特徴なのが、流動的なポジション取りだ。サイドバックの選手が中に入ってボランチのようにプレーすること、ボランチの選手がサイドに開いてアタッカーの役割を担ったり、サイドバックがウイングのように攻撃に参加したり、トップ下の選手とトップの選手が入れ替わるなど、試合中に目まぐるしく立ち位置が変化する。

両ウイングがサイドを変えることも少なくなく、気がつけば元に戻っていることも。また、ポリバレントな選手が多数揃っていることも大きいと言える。

例えば、DF岩田智輝は昨シーズンから在籍。大分トリニータでは3バックの右か右ウイングバックでプレーすることが多かったが、横浜FMでは右サイドバックや2センターバック、ボランチと3つのポジションでプレーしている。

より顕著なのはDF小池龍太。右サイドバックが主戦場だったが、左サイドバックも務め、人手が足りないとなればボランチでもプレーする。横浜FMのサッカーには欠かせない選手の1人となっている。

もちろん選手個々の能力の差、戦術理解度の差があることではあるが、横浜FMでは試合中はポジションに捉われてサッカーをしておらず、立ち位置は流動的。局面、局面に合わせてそれぞれの選手が立ち位置を変えるため、チームとしての約束事をそれぞれが守るだけで良い。これが“一貫性”が生み出したものであり、誰が出ても変わりないパフォーマンスを出せる秘訣と言えるだろう。

小池はこの点について「新加入選手やポジション関係なく、マリノスのサッカー、アタッキングフットボールを吸収しようというのが大きな違い」とコメント。また「マリノスのサッカーをプレーすることはポジションが関係ないというか、居なければいけない場所を認知しながら、やることは多いようで少ないというか、理解していれば迷うことはないです」と、チームのスタイルを語った。

つまり、原理原則を理解すれば、誰がどこでプレーしても変わらないということ。簡単なことではもちろんないが、しっかりと選手たちが理解していれば、選手が変わっても大きくパフォーマンスが落ちたりはしないということになる。

これはマスカット監督も「全員がプレーを理解して表現できれば、コントロールして上手く試合を進められるというのが見えてきた」と清水エスパルス戦後にコメント。6人のスタメンを入れ替えた清水戦の戦いでも「西村拓真、吉尾海夏がすごく良いプレッシャーをかけて相手からボールを奪ったりなど良いプレーができた」と、横浜FMのサッカーに日が浅い2人も力を発揮したと評価した。

戦い方を大きく変化させず、それでもブラッシュアップを続けて選手たちが高いパフォーマンスを維持し続けることで、クオリティを格段に上げている横浜FM。マスカット監督は「1人1人が緊張感をもってやらなければいけないと感じたはずだ」とコメント。その理由は「色々な選手がどこででもパフォーマンスを発揮する。
そのため、競争が激しくなると感じているはずだ」と、誰がどこで出てもおかしくない状況が作れるということを示唆した。

ポステコグルー監督が築いたスタイルを、マスカット監督が進化させている横浜FM。川崎Fの3連覇を阻止する急先鋒は変幻自在の“トリコロール”かもしれない。
《超ワールドサッカー編集部・菅野剛史》

 
 
2022/03/07 5試合で11ゴールの得点力と並ぶ、F・マリノスの武器 誰が出ても戦力が変わらない魅力|theWORLD(ザ・ワールド)|世界中のサッカーを楽しもう!

— 若手も積極的に起用されている

今季もACLを戦うことになっている横浜F・マリノスは開幕から約2週間ですでに5試合を消化している。成績は3勝1分1敗と好調。今季は昨季のリーグ王者川崎フロンターレが躓き気味であり、序盤で大きく差を広げたい。

そんなF・マリノスの強みは攻撃的なサッカーであり、ここまで11ゴールとリーグトップの成績を残している。今季加わったアンデルソン・ロペスと西村拓真がすでに結果を残しており、攻撃力は昨季以上か。

もう一つの強みとして挙げられるのは、どの選手が出てもプレイの質を保っていることだ。2-0で勝利した清水エスパルス戦では、2日のヴィッセル神戸戦から6人先発が交代しているが、問題なく清水を撃破している。選手層の厚さがそれを現実にしているのだが、ユーティリティ性に富んだ選手を複数人保有することでさらにその層を厚くしている。

清水戦でいえば、岩田智輝と小池龍太が複数のポジションでプレイしていた。岩田はセンターバックと中盤、サイドバックでプレイが可能だ。清水戦ではCBとして先発し、エドゥアルドが入ったことで一つポジションを上げて中盤の守備強度を高めていた。小池は中盤でプレイし、松原健が抜けたことでSBの位置に入った。こうすることで各ポジションのクオリティを落とすことなく、フレッシュな選手を投入することができる。そうすれば強度を高く保つことができ、より有利に試合を進めることが可能となる。これは岩田、小池両選手の適応力の高さがなせる業であり、シーズンが進むにつれて彼らの重要性はより高まることになりそうだ。

 
 
2022/03/08 「マリノス1.5軍?」の不安はたちまち一掃。誰がピッチに立っても高品質なサッカーに魅了された|Jリーグ他|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

原山裕平●取材・文

 3月6日に日産スタジアムを訪れた当初の目的は、清水エスパルスのサッカーに興味があったからだ。

 下馬評は決して高いとは言えなかったが、開幕戦では北海道コンサドーレ札幌に追いついて引き分け、続くジュビロ磐田との”静岡ダービー”には2−1と競り勝った。「予想に反して」と言っては失礼だが、いい形でスタートを切った印象で、鈴木唯人という20歳のタレントの成長度合いも確認しておきたかった。

 昨季は14位に終わったチームが、どのように変化したのか。開幕から間もないこの時期だからこその取材の醍醐味である。

 お手並み拝見とばかりに、キックオフから視線はオレンジのユニホームを追いかけた。しかし、目的が変わるまで大した時間を要さなかった。素早くボールを動かしながら颯爽とピッチを走る青いユニホームに、早々に目を奪われてしまったからだ。

 この日の横浜F・マリノスのスタメンの顔ぶれは、王者を4−2で撃破した2月23日の川崎フロンターレ戦とは大きく異なった。

 同じだったのは、GKの高丘陽平と、CBの岩田智輝、右SBの松原健、そしてウイングのエウベル。小池龍太の名前もそこにはあったが、川崎戦では左SBで出場していたのに対し、この清水戦ではボランチとしてピッチに立っていたのである。

 マルコス・ジュニオールをはじめとする複数の負傷者が出ていた影響に加え、開幕から中2日、3日で続いた連戦の5試合目である。コンディションを考慮すれば、選手を入れ替えるのは当然のこと。今季初出場となる2年目のCB角田涼太朗をはじめ、フレッシュなメンバーがスタメンに名を連ねていた。

 もはや、ベストメンバーの定義などないのかもしれない。現状で最も状態のいい選手がベストと言われれば、それまでだ。

 しかし、経験値やポジション適性を踏まえても、この日の横浜FMはいわば「1.5軍」と呼べるような陣容だった。したがって当然ながら、パフォーマンスの質は低下するのでは? と懐疑的な想いがあったのは否定できない。

— なぜ異なるポジションなのに…

 だが、そうはならなかった。立ち上がりからハイプレスをかけて清水の攻撃に自由を与えず、多くの時間帯でボールを保持し、奪われても即時奪回を実現する。それぞれが正しいポジションを取っているから、ボールはよどみなく回り、ウイングは迷いなくスペースに走り出せる。

 なかでも出色のパフォーマンスを見せたのが、小池である。ボール回しの起点となりつつ、走力を生かしてスペースを埋める。自陣ゴール前でインターセプトすれば、相手のビルドアップのミスを突き、決定機を演出。そして極めつけは32分、右サイドでボールを受けると中に切れ込み、鮮やかな左足ミドルで先制ゴールを奪ってみせるのだ。

 本来はSBの選手でありながら、ボランチとして放った圧倒的な存在感。こちらが本職では? と思わせるほどの働きぶりだった。

 なぜ、異なるポジションでこれだけのパフォーマンスを見せられたのか。小池はこともなげに語った。

「マリノスのサッカーをプレーするなかで、ポジションは関係ないと言ってはあれですが、いなければいけない場所を認知したなかで、役割を理解していれば、迷うことはありません」

 たとえポジションが違っても、正しい位置取りと、そこでやるべきことを理解していれば、SBやボランチというポジション名に囚われる必要はないのだろう。確たるプレーモデルが築かれているからこそ、共通理解が整理され、誰がどのポジションで出てもチームとして機能することができるのだ。

 異なるポジションでプレーした小池だけではない。今季初スタメンとなった吉尾海夏も十分なパフォーマンスを見せた。

 3年間の武者修行から復帰したアタッカーはトップ下の位置に入り、ハイプレスをこなしながら、危険な位置に侵入。43分には相手のクリアボールをブロックしたボールがそのまま清水ゴールに吸い込まれる幸運な形で追加点を奪っている。もちろん運だけではない。ハイプレスをいとわない献身ぶりが導いたゴールでもあった。

— 過密日程にも対応し得るチーム
 ほかにも西村拓真、藤田譲瑠チマの新加入組も、スタメン出場は今季2試合目だった。しかし、いわゆるレギュラー組を多く欠きながらも、横浜FMらしいスピーディかつ挑戦的なサッカーは後半途中まで機能性を失わなかった(終盤はやや押し込まれたが)。

 横浜FMのケヴィン・マスカット監督は誇らしげに語る。

「これからのシーズンに向け、一人ひとりが緊張感を持って取り組んでいかなければいけないと感じたはず。いろいろな選手がどのポジションで出てもレベルを落とさず、自分たちのサッカーができるからです。ポジション争いは激しくなると感じていると思いますし、日々の練習で集中し、ピッチに立つために何を表現しなければいけないのか。そこをしっかりと学んだはずです」

 誰がピッチに立っても、確かな質を担保できる。属人的ではなく、組織として戦うことができる。つまり、選手を入れ替えながら過密日程にも対応し得るチームであるということだ。

 JリーグとACLの両獲りを実現したチームはまだない。しかし、このチームなら……。

 
 
2022/03/08 横浜F・マリノス、浦和レッズが採用。サッカー界に襟付きユニフォームは復活するか|Jリーグ他|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

中山 淳●文

— 今年は横浜FMと浦和が襟付きユニフォーム

 今年で30年目を迎えたJリーグでは、初年度からリーグに参加している「オリジナル10」と呼ばれる10クラブで、さまざまな記念企画が実施されている。

 選手が試合で着用するユニフォームにも、工夫をこらした記念モデルが登場。そのなかで特に話題を集めているのが、横浜F・マリノスと浦和レッズの襟付きユニフォームだ。

 今回の横浜FMのユニフォームは、30年前の1992年に着用されていたモデルをモチーフとし、両脇にトリコロール模様のデザインが施されているのが特徴的で、当時と同じように襟付きVネックを採用。レトロとモダンをミックスしたものだ。

 横浜FMは、2016年のカップ戦用ユニフォームと2012年のクラブ創立20周年記念ユニフォームでそれぞれ襟付きモデルを採用しているが、リーグ戦用の基本ユニフォームとしては、1シーズンだけ着用された2001年の5代目モデル以来のことになる。

 一方の浦和も、30周年に合わせて2012年以来となる襟付きモデルが復活。レッズは2010年と2011年にも襟付きユニフォームを採用していたが、今シーズンのモデルでは、20周年に合わせて採用された2012年モデルと同じように、胸元にボタンを加えたユニフォームになっている。

 胸元ボタンは初代モデルから採用していたレッズのこだわりでもあるため、オールドファンにとっては感慨深いユニフォームと言えるだろう。

 これら襟付きユニフォームが改めて注目を浴びる理由は、レアケースだからにほかならない。実際、今シーズンのJリーグ全58チームのなかで襟付きユニフォームを着用するチームは、横浜FMと浦和以外では、J2モンテディオ山形(セカンドユニフォームのみ)しか存在しない。

 1993年に産声をあげた当時のJリーグでは、10チーム中8チームが襟付きユニフォームを着用し、襟なしモデルはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)とガンバ大阪だけだったことを考えると、この30年でユニフォームのトレンドがいかに変化したかがわかる。

 転換期は、日韓共催の2002年W杯前後の時代。ユニフォームの製作過程において、デザイン性やファッション性よりも、通気性や発汗性といった機能性を重視する傾向が強くなると、襟付きユニフォームはあっという間にピッチから消えていく運命を辿った。

 その変化は、近年における日本代表歴代ユニフォームを振り返るとわかりやすい。

— 機能性重視で2000年代に衰退

 たとえば、日本代表ユニフォームで初めてレプリカユニフォームが販売されたのは、広島で開催された1992年アジアカップで着用されたモデルになるが、それから2001年までに着用された計6つの日本代表ユニフォームは、いずれも襟付きモデルだった。

 ところが、2002年W杯で着用されたユニフォームでは、襟なしのVネック型にモデルチェンジ。最大のポイントは、裏地にメッシュ素材を使用した二重構造に変わったことで、エンブレムもプリントタイプに変わるなど、徹底的な軽量化が図られた。

 ちなみに、2002年W杯の出場チームのなかで襟付きのユニフォームを着用したのは、32チーム中6チーム。ブラジルとクロアチアはセカンドユニフォーム限定だったので、ファーストユニフォームが襟付きだったのは、韓国、アメリカ、ナイジェリア、コスタリカの4チームしかなかった。

 おそらくオールドファンが当時のユニフォームで真っ先に想起するのは、大会前にカメルーン代表が着用した袖なしユニフォームだろう。軽量化を極めるべく史上初めて登場したその斬新なユニフォームは、残念ながらFIFAに認められずにお蔵入りとなったが、当時は超レアなコレクターアイテムとして絶大な人気を誇った。

 そのほかでは、イタリア代表が本番で着用した上半身にジャストフィットした特徴的なフォルムの丸首型ユニフォームも印象深いが、とにかくその時代から各メーカーは機能性を追求すべく技術開発にしのぎを削るようになった。そんな技術開発競争のなかで置き去りになってしまったのが、デザイン性とファッション性だ。

 サッカーのユニフォームの歴史を振り返ると、そのルネッサンス期と言えるのが1990年代になる。

 特にイングランドでプレミアリーグが幕を開けた1992年以降、各チームがサポーター向けのレプリカユニフォーム販売に力を入れるようになり、一流デザイナーも開発に参画して頻繁に新モデルをリリース。そこに縫製技術の進化が加わったことで、多種多様なデザインやカラーリングを施した特徴的なユニフォームが続々と登場した。

 ファッション性やデザイン性が重要視されたその時代のけん引役は、当時プレミアリーグの主役を担った名門マンチェスター・ユナイテッドだった。

— 襟付きユニフォームの象徴・カントナ
 それまでVネック型ユニフォームを採用し続けていたマンチェスター・ユナイテッドが、クラッシックな襟付きモデルを10年ぶりに復活させたのも、プレミアリーグが産声をあげた1992年のこと。1994年から1995年には、本拠地オールド・トラフォードの絵柄がシャドープリントされた画期的な襟付きユニフォームを採用した。

 そのモデルは世界的に人気を博し、1995年にはレッズがそれと同じ仕様で駒場スタジアムの絵柄をフロント部分にデザインしたモデルを着用している。

 当時マンチェスター・ユナイテッドのカリスマだったフランス代表のエリック・カントナは、襟付きユニフォームの象徴的選手だ。特にゴールを決めたあと、ユニフォームの襟を立てたカントナが両手を腰につけて胸を張る姿は、世界中のサッカーファンの目に焼きつけられた。ある意味、襟付きユニフォームの魅力を教えてくれた人物と言っていい。

 それ以降では、ドワイト・ヨーク(マンチェスター・ユナイテッドほか/トリニダード・トバゴ)、ガブリエル・バティストゥータ(フィオレンティーナほか/アルゼンチン)、フランチェスコ・トッティ(ローマ/イタリア)らが襟立ての継承者として知られるが、日本でもセレッソ大阪のレジェンドのひとりでもある元日本代表の西澤明訓が、ユニフォームの襟を立ててプレーする選手として知られている。

 今回、横浜FMと浦和の襟付きユニフォームに注目が集まった理由は、おそらく機能性とは別のところの、ユニフォームの”遊び”の部分にある。そういう意味で、ほとんどのチームがVネックや丸首のユニフォームを採用するなか、ノスタルジックな襟付きユニフォームが復活したことは、今後のJリーグにおけるユニフォームデザインに何らかの影響を与える可能性を秘めている。

 さらに、そのなかで”襟立て”の選手が活躍したとなれば、襟付きユニフォームのインパクトも倍増必至。その魅力が、より多くのファンに伝わることになるだろう。

 
 

 
 

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