夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノスまとめ(2018/1/25) #fmarinos


夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2018/1/25(木)、練習施設拡充のリリースが来ました)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Istagram
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

1/25(木)トップチームスケジュール変更のお知らせ | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(午前中が非公開に)

トレーニング施設に関するお知らせ | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(新横浜公園と久里浜駅周辺で拡充)

2018 沖縄石垣島キャンプ フォトレポート[6日目] | 横浜F・マリノス 公式サイト
 
 

今日の練見(れんみ)

(´-`).o0(none)
 
 

Twitter / Istagram


 
 

Webニュースログ

2018/01/25 【Jリーグ】横浜M、横須賀に練習拠点設置へ クラブハウスなど整備 – 産経ニュース

 J1横浜Mは25日、神奈川県横須賀市にクラブハウスや練習施設を設置する計画を発表した。横浜市とともにホームタウンである横須賀市のJR久里浜駅西側にフルピッチ2面、ハーフピッチ1面、トレーニングジムを備えたクラブハウスを整備する予定で、早期の着工、完成を目指す。

 同時に日産スタジアムに隣接する新横浜公園内の第一運動広場もグラウンドの2面化を検討し、横須賀市の施設とともに活用するという。

 横浜Mは2015年に、みなとみらい地区の充実したクラブ施設、マリノスタウンから高額の維持費を理由に撤退。主に新横浜の練習場を使用してきたが、練習拠点の確保が課題となっていた。

2018/01/25 横浜F・マリノス 新監督迎え新たな船出 「他から恐れられるチームに」 | 緑区 | タウンニュース

 昨シーズンにクラブ創設25周年を迎えた横浜F・マリノスはこのほど、新体制発表会を日産グローバル本社日産ギャラリーで開催。会場とパブリックビューイング合わせて約1500人に披露した。

 会の冒頭で古川宏一郎代表取締役社長は、「2004シーズン以来のリーグ優勝を目指す」とあいさつ。チーム統括本部スポーティングダイレクターのアイザック ドル氏からチームスローガン「Brave and Challenging〜勇猛果敢〜」が発表された。

 続いて新監督のアンジェ・ポステコグルー氏(前オーストラリア代表監督)が登壇。「他チームから恐れられるようなチームにしてきたい」と抱負を語り「これまでの20年間の監督経験でアタッキングフットボールをしてきた。それはここでも変わらない」と意思を示した。

 新加入選手は以下の通り(カッコ内は前所属チーム)。FW 大津祐樹(柏レイソル)、MF ユン イルロク(FCソウル)、DF 西山大雅(横浜F・マリノスユース)、DF 生駒仁(鹿児島城西高校)、MF 堀研太(横浜F・マリノスユース)、MF 山田康太(横浜F・マリノスユース)、FW 町野修斗(履正社高校)

2018/01/25 齋藤学の思いを聞き続けた1年間。マリノスファーストだった男の決断。 – Jリーグ – Number Web – ナンバー

text by 二宮寿朗

 川崎フロンターレの新体制発表が行なわれる2日前だった。

 齋藤学は横浜F・マリノスから移籍に踏み切った苦渋の決断をSNSに記した。この1週間前に、両クラブから齋藤のコメントは発表されていた。しかしファン、サポーターの反発は大きく、もう一度自分の思いを伝えるべきだと感じたのであろう。異例とも言える2度目の発信。そこには、こうつづってあった。

≪僕はマリノスが大好きです。だって、自分の全てが、詰まった、8歳から過ごしてきたクラブですよ。『屑、死ね、裏切り者、怪我治るな』など何を言われてもしょうがない。そう思っていましたが、ひとつだけ言わせてもらいたい。今までマリノスの選手として闘ってきたこと これだけは否定されたくない≫

 文字から聞こえる悲痛な叫びが、筆者の耳にこだました。

–1年契約は、何のためだったのか。

 1年前、マリノスは揺れていた。

「シティ・フットボール・グループ」がフロント業務に全面的にかかわるようになり、欧州の常識を持ち込む急進的な変革はひずみを生んだ。小林祐三、榎本哲也、兵藤慎剛ら30代の功労者がチームを去り、大黒柱の中村俊輔まで移籍の道を選んだ。長年在籍した現場スタッフもチームを離れた。リーグ戦全試合フルタイム出場した中澤佑二が50%減の年俸を提示されたことも大きな波紋を呼んだ。

 一方、海外移籍を目指していた齋藤には正式オファーが舞い込まず、2月上旬にクラブと契約を更新した。契約期間は単年だった。

 海外に行きやすい状況をつくるため? そう問うと、あのとき彼が“この人、分かっていないなあ”という顔で首を横に振ったことを覚えている。

「今年、俊さんだけじゃなくて、今までマリノスにいた人が移籍したわけじゃないですか。マリノスがこれからどうなっていくのか、僕だって分からない。だから複数年じゃなく、まずは今年1年、マリノスのためにやれることを全部やったうえで次のことを考えたいって思ったんです」

 敢えて10番を背負うことを希望し、キャプテンをエリク・モンバエルツ監督から任された。齋藤は言葉をつないだ。

「契約の際に利重さん(当時チーム統括本部長)から“一緒に戦っていこう”と言われて、僕も覚悟を持ってやらなきゃいけない、と。これまでも自分がチームを引っ張っていく気持ちでやっていましたけど、10番とキャプテンでその責任から逃げられない立場になりました」

–マリノスは、シーズン途中までACL圏内を走っていた。

 全部背負う――。

 その覚悟は、本物だった。

 練習から厳しい雰囲気をつくり出そうとした。激しい接触プレーがあっても能動的に、率先して次のプレーをやろうとした。チームメイトがウォーミングアップでダッシュをきちんとやっていないなと感じたら「やろうよ」と要求した。練習の最初から最後まで、齋藤は厳しい目を周囲にも光らせた。選手たちに声を掛け続けた。煙たがられても、いいと思った。

 新しいマリノスは沈むどころか浮上していく。

 開幕戦の浦和レッズ戦に勝利し2連勝でスタート。第13節の清水エスパルス戦(5月27日)からは5連勝をマークして、ACL圏内も射程距離に入った。第24節のFC東京戦(8月26日)に1-0と勝利し、14戦負けなしで暫定ながら2位に浮上した。齋藤は、チームの確かな変化に手応えを感じ取っていた。

マリノスは、シーズン途中までACL圏内を走っていた。

 全部背負う――。

 その覚悟は、本物だった。

 練習から厳しい雰囲気をつくり出そうとした。激しい接触プレーがあっても能動的に、率先して次のプレーをやろうとした。チームメイトがウォーミングアップでダッシュをきちんとやっていないなと感じたら「やろうよ」と要求した。練習の最初から最後まで、齋藤は厳しい目を周囲にも光らせた。選手たちに声を掛け続けた。煙たがられても、いいと思った。

 新しいマリノスは沈むどころか浮上していく。

 開幕戦の浦和レッズ戦に勝利し2連勝でスタート。第13節の清水エスパルス戦(5月27日)からは5連勝をマークして、ACL圏内も射程距離に入った。第24節のFC東京戦(8月26日)に1-0と勝利し、14戦負けなしで暫定ながら2位に浮上した。齋藤は、チームの確かな変化に手応えを感じ取っていた。

–「GET WELL SOON MANABU」というメッセージ。

 だが、次節のヴァンフォーレ甲府戦(同23日)でアクシデントが待っていた。接触プレーで途中交代し、右ひざ前十字じん帯断裂で全治8カ月の大ケガを負ったのだ。

 齋藤が必死に取り組んできたことをメンバーも、チームスタッフも、そしてサポーターたちも十分に理解していた。だからこそ齋藤がチームを離れた9月30日のガンバ大阪戦ではスタンドに「学と一緒にW杯へ」の横断幕、背番号10のビッグフラッグが掲げられ、選手たちは試合前に「GET WELL SOON MANABU」(学、すぐによくなるよ)とメッセージ入りのユニホームを着こんだ。

「マジ、感動したんです」

 齋藤が声を震わせながら語った姿を、忘れない。

–車の中で目を腫らすまで泣いた日。

 彼には手術後、リハビリをJISS(国立スポーツ科学センター)で行うプランもあったが、マリノスでやることにこだわった。野暮だと分かっていても、何故なのかを聞いてみた。

「クラブにいたほうが、外からチームを見ることで分かることもある。そのときに“こうじゃないの?”ってチームに言えるじゃないですか」

 大ケガをしても“マリノスファースト”かよ。そうツッコミを入れたくなったほどだ。だがその陰では、葛藤もあった。知人に運転をしてもらった車の中で号泣したこともあった。悔しさや絶望感が急に胸をしめつけ、知人に「ごめん、1回だけ泣かせてもらう」と言って目を腫らすまで思い切り泣いた。筆者もつい最近になって知った話である。

–「本当に充実したシーズンでした。でも……」

 シーズンを終えたときに、ひとつ聞きたいことがあった。

 背負ったものは重かったか、と。彼はあの日と同じように“この人、分かっていないなあ”という顔で首を振った。「一緒に戦ってほしい」と言ってくれた利重チーム統括本部長は2月に職を離れ、事業業務に専念する形となっていた。クラブの人事は仕方ないこととはいえ、齋藤に対するフォローが十分だったのかも気になっていたからだ。

 首を振った彼はこう語った。

「そこまで背負わなくていいと言われても、そこまで背負わなきゃいけない。そこまでやらなくていいと言われても、そこまでやらなきゃいけない。チームのことをずっとずっと考えてやってきたつもりではあります。本当に充実したシーズンでした。でも……」

 筆者が「でも」と言葉を反芻すると、少し沈黙した後で彼は言葉を続けた。

「プレーとしては判断基準が、どうしてもチームが先になりました。でもそれって、チームに逃げる、チームに甘えるっていうところなのかもしれないなって思うようにもなったんです」

 くすぶる齋藤学がそこにはいた。チームに、逃げている、甘えている。その言葉が、筆者にはずっと引っ掛かっていた。

–「勝負したいっていう気持ちが強くなったんです」

 1月12日、衝撃の移籍は発表された。F・マリノスの公式サイトに、彼の思いがつづられてあった。

≪昨年、キャプテン、10番と責任をもらいながらも、不甲斐ないプレーや満足のいく結果を残せない僕に、たくさんの声援を送っていただいたこと。9月の大怪我の際も、本当にたくさんの声、手紙、千羽鶴、ビックユニフォーム。本当に本当に勇気付けられ、辛いリハビリも日々続けてこれました。この移籍は、その恩を仇で返してしまうことになってしまいました≫

 この発表を受けて、リハビリ中の彼に接触を図った。断腸の思いであることは、重々伝わってきた。≪恩を仇で返す≫との表現も「復帰のピッチには、マリノスのユニホームを着て立ちたい。その思いでリハビリをやってきたから」だった。1年経ってあらためてクラブの強化方針や自身の評価、チームに対する評価を聞いた。フロンターレからの評価も聞いた。いろんなものを胸に入れて、自分の声に耳を傾けようとしたという。

 海外に挑戦したい、ワールドカップに行きたい。思えばそう願うのは「勝負したい」というアスリートとしての本能に従うもののはず。彼は思いを吐き出すように言った。

「マリノスは大切な場所です。8歳から、ずっとやっているんですから。ただ、甘えちゃいけない。僕が(ケガで)離れても、チームは闘って、タイトルまであと一歩のところまできた。僕がいないと成り立たないというチームじゃない。

 結論を出したのは天皇杯決勝の翌日(1月2日)。サッカー選手って、結局孤独な戦いだと僕は思うんです。成長があって、自分の価値を高めていくためにはどうしていくか。フロンターレという初めての環境に行って、自分のポジションをつかみ取りたいと思うようになった。27歳でもう一度、その勝負をしたいっていう気持ちが強くなったんです」

 悩みに悩んだ?

 筆者がそう尋ねると、今度ばかりは首を横には振らなかった。

–思い切った決断は、ドリブラーらしくもある。

 批判は覚悟のうえ――。

 10番とキャプテンを背負って、チームを良き方向に導こうと真っ向から逃げずに闘ってきたからこそ芽生えた感覚。

 誰も否定はできない。横浜F・マリノスが沈む太陽ではなく、浮かぶ太陽に航路を切れたのには、齋藤学の働きがあったことを。

 しかしまあ、随分と思い切った決断をしたものだ。

 知人のサポーターから「海を渡るんじゃなくて、川を渡るのかよ!」とツッコミも入った。

 しかし、しかしだ。

 一か八かで挑んでいくのは、果敢に勝負に挑むドリブラーらしくもある。

 
 

 
 

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