今日の横浜F・マリノスの動向が6分5秒ぐらいでわかるWebまとめ「夕刊こけまり」(2024/3/11) #fmarinos


今日の横浜F・マリノスの動向が6分5秒ぐらいでわかるWebまとめ「夕刊こけまり」

(´-`).o0(ハッダの件はやめてあげてw)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.X(旧Twitter) / Instagramなど
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

2024/03/08 エウベル選手J1リーグ通算100試合出場記念グッズ受注販売のお知らせ | ニュース | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(「アクリルスタンド」と「フェイスタオル」)
 
 

今日の練見(れんみ)

(´-`).o0(トップチームはオフ)
 
 

X(旧Twitter) / Instagramなど

(´-`).o0(none)
 
 

Webニュースログ

2024/03/09 【サッカー・Jリーグ】31年を経て実現した”歴史的再戦” ピッチから、スタンドから、父子Jリーガーが見た「新たな景色」|FNNプライムオンライン

2024年2月25日。サッカー・Jリーグでは、東京ヴェルディ対横浜F・マリノスのシーズン開幕戦が国立競技場で行われた。

両チームが開幕戦で戦ったのは、Jリーグ発足の1993年に旧国立競技場で行われたJリーグ開幕戦以来。

31年前の“国立でのJリーグ開幕戦”という歴史的カードの再現に、5万3026人のファンが詰めかけた。

試合は開始7分、東京ヴェルディの山田楓喜がFK(フリーキック)で先制。

長い低迷を乗り越え、16年ぶりにJ1昇格を果たした東京ヴェルディが、この1点を守りきって歴史的勝利かと思われたが、後半44分。横浜F・マリノスのアンデルソン・ロペスがPK(ペナルティキック)で追いつくと、アディショナルタイムには松原健が勝ち越し弾。横浜F・マリノスが2-1で劇的な逆転勝利をおさめた。

さらにこの開幕カードの話題性にけん引されるように、今シーズンのJリーグ開幕期(第1節、第2節)の入場者数総計はロケットスタートを果たす。

その数、68万3587人。2023年の57万6947人に比べて約10万人の増加を記録した。

— 「新しいJリーグの歴史に名を刻めた」

サッカーファンの注目を集め、スタンドに観客を呼び込んだ歴史的再戦に、選手たちや31年前のピッチに立った男たちは何を感じたのか。東京ヴェルディ主将・森田晃樹(23)はこう振り返る。

「きょうは本当に沢山のお客さんが来てくれて、そういう重みは感じていましたし、きょうの盛り上がりを見ても、やっぱりそういう歴史のある一戦なんだと思いました。僕たちは負けてしまいましたが、見ている方にとっては面白い試合だったと思います」

悔しそうな表情を浮かべながらも、森田は振り返った。

また、31年前の開幕戦に出場した元ヴェルディ川崎・北澤豪(55)は、今回はOBとして現地に駆けつけた。

超満員の試合を見届けたあとの帰宅中、北澤は感慨深げに語った。

「(ヴェルディが負けて)悔しいけど、試合を見ていて楽しかったですね。また次のステージを見ていきたいというか。それを期待させるような内容になっていたと僕は思います」

「また次の30年に向けてというか、そういった責任を現役の選手たちも持っていたと思う。試合を見ていて、すごく感心しました」

— 父から子へ継承された”開幕戦”への想い

一方、対戦相手の横浜F・マリノス。スタメン出場の水沼宏太(34)は。

「マリノス対ヴェルディが、また新しいJリーグの歴史に名を刻めたと思います」

「やっぱりJリーガーである以上、歴史をこうやって刻んで沢山刻んでくださった先輩たちのように、もっともっと盛り上がるJリーグを作っていかないといけないと思いました」

5万人の観客の前で勝利をおさめた水沼が口にしたのは、勝利の喜びよりも、先輩たちから引き継がれた”歴史の重み”だった。

その“先輩たち”の一人が、水沼の父で、元横浜マリノスの水沼貴史(63)。Jリーグ発足当時から、日本サッカー界の人気を支えてきたレジェンドだ。

31年前のJリーグ開幕戦で水沼はスタメン出場をはたし、当時3歳だった息子・宏太はスタンドで観戦。親子ともに、開幕戦には特別な思いを持ってこの日を迎えていた。

父・貴史は、今回の試合を実況中継の解説席から見守っていた。

「試合会場の熱量がやっぱりスゴかったですね。ファンの方々の“待ちわびていた”っていう想いかもしれない。そういう人たちが皆で作り上げた空間の中で、ものすごい試合をやっていたと思います」

「もちろん、ピッチで戦っている選手たちは(31年前とは)違うけれど、自分たちがやっていた時のことを本当に思い出して、『すごいことをやってきたんだなぁ、Jリーグの歴史ってここまで積み上がってきたんだな』とか、いろんな感情が出てきましたね」

日本サッカー初のプロリーグである「Jリーグ」。その最初の日のピッチに立った水沼貴史は、リーグ31年分の歩みに思いを馳せた。

同じマリノスの選手として国立競技場での開幕戦に臨んだ、“奇跡”ともいえる父と息子。偶然にも、試合の結末は31年前と同じく「マリノスがヴェルディに2-1で逆転勝ち」となった。

現役選手やOB、サッカーファンたちの31年分の熱い思いが詰まったJリーグ。その新たな歴史が、またこの日から始まった。

 
 
2024/03/09 育成上手!? J1クラブ、アカデミー出身選手の総市場価値ランキング4位。生え抜き主将がトップ! 華がある強豪 |

明治安田Jリーグの2024シーズンが2月23日に開幕した。J1リーグでアカデミー出身選手の総市場価値が最も高いのはどのクラブなのだろうか。
今回はデータサイト『transfermarkt』が算出した最新版のJ1クラブ現役アカデミー出身選手の総市場価値をランキング形式で紹介する。※市場価値は2月27日時点。

— 4位:横浜F・マリノス

監督:ハリー・キューウェル
2023リーグ戦成績:2位(19勝7分8敗)
アカデミー出身選手の総市場価値:358万ユーロ(約5億円)
最高額選手:喜田拓也(100万ユーロ/約1.4億円)

 昨季はケヴィン・マスカット監督のもと、惜しくもJ1リーグ連覇を逃した横浜F・マリノスが、今回のランキングで4位に入った。下部組織のプライマリー(小学生選抜)とジュニアユース(中学生選抜)には2チームずつあり、それだけに人数も多い。出身者には遠藤渓太(FC東京)や小野裕二(アルビレックス新潟)などがいる。

 現在トップチームでプレーするアカデミー出身の選手は9人おり、その中で市場価値が最高額なのはキャプテンを務める喜田拓也(100万ユーロ/約1.4億円)だ。この生え抜きMFは、今や横浜FMに欠かせない存在である。

 2番目に市場価値が高いのはMF天野純で70万ユーロ(約9800万円)。ベルギー、韓国のクラブを経て今季から横浜FMに復帰している。また、水沼宏太が65万ユーロ(約9100万円)と上位3人の市場価値が非常に高い。その他、吉尾海夏が45万ユーロ(約6300万円)、山根陸が40万ユーロ(約5600万円)などと若手の台頭も目立っている。

 今季から監督に就任したハリー・キューウェル監督次第となるが、これから何人の将来有望な若手がトップチームに加わってくるのだろうか。

 
 
2024/03/08 なぜ獲ったの…。横浜F・マリノス、謎すぎた歴代外国人選手6人。元レアル・マドリードMFも

 1993年に開幕したJリーグでは、数多くの外国人選手がプレーしてきた。見事な活躍をしてクラブの目標達成や発展に貢献した助っ人がいるが、期待に応えられず、ほとんどピッチに立つことなく日本を去った選手も少なくない。今回は、横浜F・マリノスで活躍できなかった外国籍選手を6人紹介する。※成績は横浜F・マリノス在籍時のもの。

— MF:イゴール・ヨビチェビッチ(クロアチア)

生年月日:1973年11月30日
在籍期間:1999年7月〜同年12月
Jリーグ成績:1試合0得点

 イゴール・ヨビチェビッチは、1999年に横浜F・マリノスに加入したが、公式戦出場はわずか1試合だった。

 クロアチアの名門ディナモ・ザグレブで育ったヨビチェビッチは、「次代のズボニミール・ボバン」と若き日に注目されたタレントで、1991年からレアル・マドリードの下部組織に移っている。

 しかし、1995年にU-21クロアチア代表でプレーした際に重傷を負って約1年間の離脱になると、母国のNKザグレブでのプレーを経て、1999年夏にテスト生として横浜FMに加入した。日本でもポテンシャルを発揮することはできず、シーズン終盤の清水エスパルス戦に85分から出場しただけだった。その後も様々な地を渡り歩いたヨビチェビッチだが、若手時代の輝きは戻らずに、2004年に現役を引退。現在はサウジアラビアのアル・ライードで監督を務めている。

 スペインメディアの『アス』で2020年にヨビチェビッチが語ったところによると、レアルでトップデビューがなかったのは、契約の問題だった。レアルがディナモ・ザグレブに移籍金として支払ったのは100万ユーロ(約1億4000万円)程度だったものの、トップチームでデビューした際に高額の追加料金が発生する契約だったとのこと。「私はレアルへ行ったとき17歳で、契約のことは知らなかった」と当時を振り返っていた。

— FW:アブデルジャリル・ハッダ(元モロッコ代表)

生年月日:1972年3月21日
在籍期間:2000年
Jリーグ成績:なし

 アブデルジャリル・ハッダは、横浜F・マリノスの歴史で最も不思議な補強と言える選手かもしれない。在籍期間は、わずか4日だった。

 モロッコ代表として1998年のフランス・ワールドカップで2得点を記録したハッダは、2000年にスポルティング・ヒホンから期限付き移籍で横浜F・マリノスに加入した。

 驚異の身体能力に加えて両方の足を使いこなせるストライカーで、新エース候補と期待されていたが、加入発表からわずか4日で退団が発表された。理由については、オズワルド・アルディレス監督の好みではなかったなど、当時様々な憶測があったものの、はっきりとしたことは分かっていない。

 ハッダの横浜F・マリノス加入が決まったのは28歳で、キャリアの全盛期であることが想像できる時期だった。2000年といえば、中村俊輔がJリーグ最優秀選手賞を受賞したシーズンであり、ハッダと破壊力のある攻撃を夢見たファンが多かったはずだ。

— FW:ラウル・マルドナード(アルゼンチン)

生年月日:1975年3月11日
在籍期間:2000年2月~同年6月
Jリーグ成績:4試合0得点

 ラウル・マルドナードは、2000年2月に加入したアルゼンチン人FWだが、ほとんど活躍できないまま帰国した。

 マルドナードは25歳のアルゼンチン人FWというだけで期待を集めたが、リーグ戦4試合に出場して無得点という結果だけでなく、プレー内容でも全くインパクトを残せず、すぐに起用されなくなった。

 2000シーズンの横浜F・マリノスは、オズワルド・アルディレス監督がチームを率いた。マルドナードは指揮官と同じアルゼンチンのコルドバ出身で、指揮官の古巣であるインスティトゥートACコルドバで育った選手だ。

 監督はなんとかしてマルドナードを育てたかったのかもしれないが、1stステージで優勝したチームでは力不足だったのかもしれない。その後もアルゼンチンで目立った活躍をしておらず、クラブがマルドナードのどのあたりを評価して獲得したのかは最後まで謎のままだった。

— FW:マルセロ・リパティン(ウルグアイ)

生年月日:1977年1月28日
在籍期間:2001年1月〜同年12月
Jリーグ成績:1試合0得点

 マルセロ・リパティンは2001シーズンに横浜F・マリノスに加入した助っ人だが、全くファンの印象には残らなかった。

 ウルグアイ人のリパティンは、パリ・サンジェルマン(PSG)の下部組織で育ったFWで、2001年に加入した横浜F・マリノスでは背番号7を身につけた。ウルグアイの世代別代表でアルベロ・レコバとコンビだったという触れ込みでやってきたが、5月12日のアビスパ福岡戦でデビューしたのを最後に、横浜F・マリノスの選手としてピッチに立つことはなかった。

 その後のキャリアでは、2002/03シーズンにメキシコのクラブ・アメリカでリーグ戦で11得点を挙げており、2006/07シーズンにはポルトガルのマリティモで7得点を記録した。ヨーロッパで一定の実績を残したと言えるだけに、横浜F・マリノスでなぜうまくいかなかったのかが、なおさら謎を深めている。

— FW:レアンドロ(ブラジル)

生年月日:1974年9月29日
在籍期間:2001年2月~同年7月
Jリーグ成績:3試合0得点

 レアンドロは2001年に横浜F・マリノスに加入したFWで、背番号9を付けたが、ほとんどピッチでは輝けず、無得点で日本を去った。

 ブラジル人のレアンドロは、母国で目立った活躍をしていなかったが、1997/98シーズンから過ごした香港で活躍した。1999/2000シーズンは香港リーグ得点王になっている。

 そのレアンドロは、2000年2月に開催されたカールスバーグカップで香港リーグ選抜の1人として、サッカー日本代表と対戦したメンバーにいた。その際に横浜F・マリノスが目をつけたのかは分からないが、翌年Jリーグにやってきている。

 しかし、Jリーグではなかなかフィットせず。184cmの身長に加えてフィジカルも強く、前線の空中戦でターゲットにはなれたが、それ以外の能力はインパクト不足で、加入半年で退団した。

— FW:パブロ・バスティアニーニ(アルゼンチン)

生年月日:1982年11月9日
在籍期間:2010年1月~2011年4月
Jリーグ成績:6試合0得点

 2010シーズンの新戦力であるパブロ・バスティアニーニは、横浜F・マリノスで全くと言っていいほど結果を残せなかったアルゼンチン人FWだ。

 2002年にアルゼンチンでプロデビューを飾ったバスティアニーニは、イングランド、ギリシャ、ベネズエラ、イスラエルと様々な国のクラブを渡り歩き、2010年に横浜F・マリノスに加入した。身長187cm・体重80kgの大型ストライカーで、前年にはアルゼンチン2部リーグで14試合に出場して8得点を挙げていただけに期待は高まったものの、1年目はリーグ戦6試合に出場して無得点。先発での起用は一度もなかった。網膜剥離で戦線を離れた時期があったとしても、納得できる数字ではない。

 それでも残留して2011シーズンも横浜F・マリノスでスタートしたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災を受けて、「震災後に帰国した家族の強い要望もあり、帰国して家族のもとで新たな道を歩み続けることを決断しました」とコメントを残して4月に契約を解除となり、Jリーグでの挑戦を終えた。

 
 

ロコさぬが運営するWebページ

ブログの感想・コメントは、Twitterなどにて。
お問い合わせは、メールでお願いします。

[X(旧Twitter)]
 ろこ@横浜F・マリノス系ブログ・こけまり

[Instagram]
 ろこ@横浜F・マリノス系ブログ・こけまり(@kokemari) • Instagram写真と動画

[Pinterest]
 ろこ (kokemari) on Pinterest

[ブログ]
 旧こけまり(Seesaaブログ)
 横浜F・マリノスのタオルマフラーをブログで並べてみた。
 
 

励まし&連絡先メールアドレス

 ろこにすた@ほっとめーる