夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノスまとめ(2020/5/4) #fmarinos

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夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2020/5/4(月)ゴールデンじゃないウィーク真っ只中)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Instagramなど
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

(´-`).o0(none)
 
 

今日の練見(れんみ)

(´-`).o0(トップチームは活動自粛中)
 
 

Twitter / Instagramなど


横浜F・マリノスxデルメッド CMメイキング映像 – YouTube
 
 

Webニュースログ

2020/05/02 「日本から生活必需品を提供」 Jリーグ得点王、「これが僕にできること」を母国称賛 | Football ZONE WEB/フットボールゾーンウェブ

–横浜FMのFWマルコス・ジュニオール、故郷と古巣に感謝を込めて物資配付

 横浜F・マリノスのブラジル人FWマルコス・ジュニオールが、故郷と古巣クラブに生活必需品を寄付した。「日本から170個の生活必需品セットを提供」とブラジルメディア「グローボ・エスポルチ」が称賛している。

 27歳のマルコス・ジュニオールは、フルミネンセの下部組織からトップチームに昇格。2019年に横浜FMに加入すると、リーグ戦33試合で15ゴールと活躍してチームの優勝に貢献し、さらに得点王とベストイレブンをダブル受賞した。

 来日2年目を迎えるなか、Jリーグ王者をけん引するアタッカーの行為に母国メディアが注目。ブラジルメディア「グローボ・エスポルチ」は、「マルコス・ジュニオールが、日本から170の生活必需品セットを故郷とフルミネンセへ提供」と報じた。

 記事では「元フルミネンセのストライカーは、横浜FMでトップスコアラーとなり、国内王者となった。しかし、彼は自分のルーツを忘れない。ブラジルでのパンデミックを気にしていた彼は、出身地であるガマと、彼を成長させたクラブの従業員に170個の生活必需品セットを配布した」と称えている。日本に滞在するマルコス・ジュニオールが購入し、現地でいとこや叔父などが車で回り、物資を配付したという。

 マルコス・ジュニオールは、新型コロナウイルスが猛威を振るう世界情勢に触れ、「僕たちは悲しい瞬間に生きていて、それがなんであれ助けが必要だ」と力説。さらに「多くの人が、男として選手としての僕の成長を見守り、助けてくれた。これが僕にできる最低限のことだ。遠く離れていても、ブラジルで起こっていることを常に追いかけている。とても悲しいことだ。なんらかの方法で手助けができればいいと思っている」と語っている。

 マルコス・ジュニオールの様々な思いが込められた寄付は、“日本からの援助”として現地でも注目を集めているようだ。


 
 
2020/05/03 横浜FMは「ブラジルサッカーに非常に似ている」 助っ人Jリーガーが指摘「成長できている」 | Football ZONE WEB/フットボールゾーンウェブ

–横浜FMのFWエリキがインタビューに回答 「常に前へ向かってプレーする」

 新型コロナウイルスの影響により、Jリーグを含む各国のリーグが中断を余儀なくされている。そんななか、昨季から横浜F・マリノスに期限付き移籍しているブラジル人FWエリキは母国メディアのインタビューに登場。横浜FMについて「ブラジルサッカーに非常に似ているプレースタイル」と指摘している。

 J1は2月21日から23日にかけて開幕戦を消化し、昨季王者の横浜F・マリノスはガンバ大阪に1-2の黒星を喫していた。その後、新型コロナウイルスの感染拡大により、第2節以降のリーグ戦の中断が決定している。J1は5月9日に再開する予定だったものの、緊急事態宣言が発令されたこともあり、再び白紙に戻っている。

 昨季にパルメイラスから横浜FMに期限付き移籍したエリキは中断期間中にブラジル放送局「Rádio Sagres 730」のインタビューに応じ、「ウイルスで全世界が非常に神経を使う日々を送っているが、日本ではサッカーと家族の両面において、ポジティブな状況となっている」と日本の現状についても触れている。そして、横浜FMでの経験については次のように語った。

「私のチームはブラジルサッカーに非常に似ているプレースタイルだ。自分の居場所をすぐに見つけることができた。僕たちを指導するオーストラリア人指揮官は非常に攻撃的なメンタリティーを持っており、常に前へ向かってプレーする。日本での2試合目では、ジョーや多くのブラジル人がいる名古屋グランパスと戦って、自分の特長を発揮しようと努めた。そこでバイシクルシュートを決めて、ベストゴールに選ばれたんだ。特別な経験ができているし、とても成長できていると感じているよ」

 横浜FMはスピード感溢れる攻撃的サッカーで昨季J1を制覇したが、特にエリキを含むブラジル人選手の活躍が際立っていた。その秘訣は、両者に共通する攻撃的なメンタリティーにあるのかもしれない。

2020/05/02 【番記者コラム】「琉球=超攻撃」のブランドを作り上げた“琉球のノイアー”と名伯楽の絆 | サッカーダイジェストWeb

–高校、大学で師弟コンビを築き上げていった

 2018年シーズン。2位・鹿児島との勝点差9ポイントの66。総得点はリーグ最多70で、1試合平均2.2得点と他を圧倒する強さを見せ、J3初優勝とJ2初昇格を果たしたFC琉球。その確立された攻撃スタイルは、金鍾成監督(現・鹿児島監督)の3年間の集大成として実を結んだ。

『3-1で勝つサッカー』を明確に打ち出し、J2昇格を目標にスタートラインに立った2016年シーズン。当時琉球に就任したばかりの金監督は未来を切り開く第一歩として愛弟子であるGK朴一圭に連絡を入れた。

 朴は藤枝MYFCでプロ生活をスタートさせ、現在は横浜F・マリノスでプレー。昨季のJ1優勝、そして優秀選手賞にも輝いた。そんなGKは東京朝鮮高の3年間、金監督の師事を仰ぎ、進学した朝鮮大学校でも師弟コンビを築き上げていった。ちょうどその頃に、朴の現在のプレースタイルは確立されたという。

「GKは守りだけに専念すればいいって言われながらも正直『なんで?』って思っていました。エリアを飛び出してバックパスを受けてビルドアップする。リスキーかもしれないけれどもそういうGKがいてもいい。そういう世間との葛藤の中でプレーしていた時にノイアーのようなスタイルの選手が目立って認められるようになってからジョンソン(鍾成)さんから『パギ(朴一圭)、お前みたいな選手が出てきてよかったな』って言われ、ふたりで笑っていました」と、朴は琉球に所属していた当時、回顧していた。無論、金監督もその挑戦を一切否定しなかった。

–「攻め勝つサッカー」は今に受け継がれている

 朴のスタイルでは、GKらしからぬ足もとの技術や高いポジショニングがよくピックアップされるが、守備範囲の広さ、シュートストップにおいて高水準の技術を備えているからこそ冒険的なプレーが披露できる。藤枝に所属していた時も大石篤人監督に「その個性は大切だから続けていこう」と背中を押され、琉球に移籍する前年の2015年シーズンは33試合の出場で143本のシュートストップを記録し、存在感を示し自信を深めた。

 その変わらぬプレースタイル、そしてプロ選手としての姿を顕示していたからこそ琉球を指揮することになった金監督は真っ先に朴に直接連絡を入れ、その呼びかけに二つ返事で応答。まもなく沖縄の地に足を踏み入れることとなる。

 朴は言う。

「ジョンソンさんは本当に人をよく見ていますし、いろいろ分かっている。だから長い目で見守って選手のことを信頼してくれているんです。僕のプレースタイルをよく知ってくれていたからこそ、一番の活かし方を見つけてくれたと思います」

 ディフェンスラインを高く押し上るハイライン戦術は朴の特性を活かすには打ってつけで、いわばこのふたりの存在によって「琉球=超攻撃サッカー」のブランドを作り上げたといっても過言ではない。今琉球に所属する選手たちもそのイメージに魅力を感じて加入したのがほとんどである。道筋をつけたところで昨年、金監督のバトンを受けた樋口靖洋監督は「『3-1で勝つサッカー』の継承、そして攻め勝つサッカーの徹底」を目指し今に受け継がれている。

 琉球で3シーズン目を迎えた2018年、金監督は朴をキャプテンに任命。これまで築き上げた琉球スタイルを遠慮せず自分の手でまとめろと背中を押した。生ぬるさを感じていたからこそ、あえて憎まれ役を演じ切って締める姿もチームのマインドをひとつにさせる要因となり、11月3日の30節・ザスパクサツ群馬戦において4-2で勝利し、J3リーグ史上最速での優勝を決めた。

 その瞬間、控えめに両腕を挙げて喜びを表現する朴だったが、ピッチサイドで待ち構える金監督の姿が見えると足早に駆け寄って抱擁を交わし、16年から築き上げてきたひとつの集大成に喜びを分かち合った。

 かつて「琉球のノイアー」とも称された朴の型破りなプレーと、GKとしての型が備わっているからこそ、そのスタイルを容認した金監督との強い絆により琉球はJ2の舞台へと上った。主体的な攻撃サッカーがクラブのアイデンティティとなっている現状を思うと、それを根付かせたふたりの功績は大きい。

取材・文●仲本兼進(フリーライター)

2020/05/02 水沼貴史のJリーグ発足秘話(前編)「代表だったけど、履歴書に“サッカー選手”って書けなかった」|theWORLD(ザ・ワールド)|世界中のサッカーを楽しもう!

1993年にスタートしたJリーグも早27周年目。同年5月15日に行われたオープニングゲーム(ヴェルディ川崎vs横浜マリノス)を皮切りに日本中がJリーグブームに包まれたが、当時のサポーターを熱狂させたのは、プロリーグ創設に伴い並々ならぬ覚悟を背負った男たちによる熱きプレイだった。

今回、特別コンテンツとしてお届けするのは「Jリーグ発足秘話」。83年より横浜マリノスの前身である日産自動車サッカー部でプレイし、マリノスの一員として開幕の歴史的瞬間に立ち会った水沼貴史氏を語り手に、前編ではJリーグ発足前夜を振り返る。プロリーグ化への希望が射すなかで、抱いた水沼氏の想いとは?

–「自分のやってきたことが、社会に認められた」

ーー水沼さんは学生時代にユース代表としてご活躍され、83年から日産自動車でずっとプレイされていました。この80年代前半にどのようなサッカー人生を思い描いていらっしゃいましたか。

「当時プロリーグは無かったし、サッカーキャリアが終わったら普通に会社に勤めるというかサラリーマンなんだろうなというイメージで日産に入ったんですね。ただ、ずっと続けてきたサッカーで代表というのが目標にあって、ワールドカップは夢の夢みたいな感じだったけど、『オリンピックには出たいなぁ』と、その頃は思っていました。83年に普通に会社に入ったんですけど、85年からは嘱託というプロみたいな契約にしてもらって。そこから自分は職業としてサッカーをやっているという意識だったかな。でもそれは自分の意識だけで、実際日本サッカーリーグがプロだったかと言うとそうではない。環境としてはアマチュアだったというのが80年代だったと思いますね」

ーー当時のライフスタイルがどんな感じだったのか、お伺いしたいんですけれども。

「入社して2年くらいは会社に行っていたので、午前中は会社に勤務して午後に2時間から3時間くらいのトレーニングをするというのが続いて。嘱託というプロみたいな契約になってからは完全に会社へは行かなくなった。そんな日々でした」

ーーちなみに、会社でどのようなお仕事をされていたのでしょうか。

「生産課という、工場のラインに部品を供給するというような部署にいて、工場に部品を組み立てるための部品を外部から発注して、それを納入するみたいな。そんなところでした」

ーー貴重なお話をありがとうございます。会社員としての生活とサッカーの両立という、かなり大変な時期を過ごされたということですよね。

「まぁ、それは2年間ですね。でも当時はそういうのが当たり前だった。ただ、僕たちは他の会社と比べればある意味仕事を任せてもらえなかったというか。普段、午前中でいなくなってしまうからです。だから会社員としては凄く中途半端だったような気もします」

ーーそのような毎日を過ごされる中で、日本にプロリーグが創設されるという話を初めて聞いたのは、いつ頃でしたか。

「プロリーグ創設の話を最初に聞いたのは、多分87年から88年くらいだったと思います。メキシコ・ワールドカップのアジア最終予選で日本が韓国に負けて、本大会に行けなくなったというところから。韓国ではすでにKリーグというプロリーグができていたので、日本もプロ化しないとライバルの国に追いつけ追い越せができないんじゃないかという雰囲気になって。それで、先陣をきって協会などに働きかけしてくれたのが、その当時代表監督だった森孝慈さん。これがきっかけだと思います」

ーーだんだんプロ化の話が具体的になっていくなかで水沼さんが感じていらしたことや、周囲の反応、環境の変化についてお伺いしたいです。

「入社してからの2年間は会社に勤めていて、3年目からはプロみたいな契約にしてもらって嘱託社員としてずっとやってきたんですけど、当時のリーグはプロじゃなかった。プロ化されるということは、自分のやってきたことがある意味社会に認められるような時代が来るのではないかと思ったわけです。自分としてはプロという意識でやっていたけど、社会的にはプロと認められていなかった。日本代表の人の名前くらいは世間に知られていたけれど、日本リーグでプレイしているその他の選手のことなんて多分みんな知らない。そんな時代だったので、自分のやってきたことが社会に認められるような時代がようやく来るという喜びというか、嬉しいなと思いましたね」

ーー社会の見る目が変わったと。

「多分、プロ選手になれば見られ方が全然違うんだろうなと。“サッカー選手”なんて書けないわけですからね、履歴書とかに」

ーープロ化の話が出てくる前は、ということですよね。

「そうそう! 自分はプロみたいな形で会社と嘱託の契約をしているけれども、履歴書には“会社員”としか書けないんですよ。だけどプロリーグができればプロ選手として認められるから、“プロサッカー選手”って書ける。それは全然違うので」

ーー当時のそうした喜びを、チームメイトを含めて色々な方と共有されたと思うんですけど、プロ化について当時のチームメイトや監督とお話しされたことがあれば教えて頂きたいです。

「入社3年目にプロみたいな形で嘱託の社員になるか、会社にそのまま会社員として残るかという選択があったんですね。僕は嘱託の社員の方を選んだんですけど、同期のなかには会社にサラリーマンとしてそのまま残るという判断をした人もいた。プロ化されるということは、自分たちが会社に対してやってきたことが認められるということだから、自分としては先が分からなかったけれど、プロみたいな契約にしてある意味“人生の勝負”をしたんですね。その当時は会社に入れば当たり前に終身雇用の時代だったのですが、そこを選ぶか、勝負して嘱託でやっていくかの判断は間違っていなかったと思います」

ーー思い切りましたね。

「そこでそういう判断をしてようやくプロになって、その舞台でできるっていう風になったから、『アイツの判断は正しかったんだ』とか、『自分もプロとしてやっていくんだ良かったな』とか、いろんな感情が周りの選手からは生まれていたはずです。だけど『良かったね』という話を周りの人とはしてないんです。自分のなかで噛みしめていただけ。環境が違う人もいたので、喜ぶわけにはいかなかったかな。今までやってて良かったなとは思いましたけど、本当に先の分からない世界だったので」

–万感の思いで迎えた1993年5月15日

ーー93年5月15日の開幕戦が近づくにつれて、どのような思いを抱かれましたか。

「当時は開幕して2週間くらいしたら33歳になるという年だったんですね。33となると結構なベテランじゃないですか。体力的な部分なんかを考えると、とにかく開幕戦のピッチに立ちたいという思いが一番だったんですよね。プロとして何年やるとかじゃなくて。とにかく93年5月15日の開幕戦の舞台、国立に立つというのが目標に変わっていた。トレーニングにしても他の選手たちと同じものをしていたし、トレーニングに付いていけなかったらそこの舞台に立つ資格なんて無いと思っていた。とにかく5.15だけを目標にしていましたね」

ーーこの表現が適切なのか分からないんですけど、当時の試合を拝見しまして、まるでカップ戦のファイナルのような感じがしました。ただ“その年の開幕ゲーム”というのではなく。

「そうですよね。あそこに立っていた人たちは、そういった思いでみんなやっていたと思いますよ。今見ても、もちろん技術的に雑な部分があったりとかあるけれど、伝わってくるものはあるなぁって。この間もちょうどNHKで試合が放送されていたけれど、それは凄く見ていて思いました。それだけのものをみんな懸けてやっていたと思う。責任もありましたからね。これからプロリーグが始まるという一番最初の試合だったし、『こんなんでプロなの』なんて思われても困る。自分たちが全力を出すことで人を惹きつけることができるという風に思ってやっていましたよ」

ーー開幕戦前夜のエピソードで今でも印象に残っているものはありますか。

「トレーニングにしても、前の日から多くのカメラが入っていて、明日いよいよ開幕ですという雰囲気は感じていました。地元が横浜だから、テレビ神奈川のカメラがずっと密着で付いていたんですよね。だから、ホテルで食事をしているところにもカメラが入っていた。それが凄く印象的でしたね」

ーーその時はどういった感情をお持ちでしたか。

「周りの関心が凄いんだなぁって。社会全体が注目しているから下手な試合はできないし、自分たちがやるしかないという覚悟をその時から持っていましたね。で、その次の日にホテルからスタジアムに向かうんですけど、当時クラブバスみたいなものは無かったんです。今はいろんなクラブが結構大きなバスを持っていたりするでしょ? 当時はそうではなくて、会社が作ってくれた大きなマリノスのステッカーを普通のバスのボディに貼ったんです。そのステッカーが貼ってあるということは、そのバスに選手がいるということが沿道の人たちに伝わるわけ。そうするとその人たちが『これが開幕戦を戦うマリノスの選手なんだ』って見上げるんですよね。その光景をバスの中で上から見ているだけで、テンションがどんどん上がっていく」

ーーワクワクしますね!

「国立に近づいてくると、沿道の人たちが持っているチケットをバスの中の僕たちに見せてくれるわけです。『これからこのチケットで、みんな試合を観に行くんだよ』って感じで、バスの下から見せてくれるの。それはこっちもテンションが上がるし、涙が出るくらい嬉しかった。それまでには無かった感情ですよね。何回も元旦に国立で天皇杯決勝を戦って、当時はそんなにサッカーを見に来てくれる人がいないなかでも、天皇杯決勝だけはたくさんの人が来てくれてバスを見上げてくれたんですけど、その時とも全然違う。『本当に期待しているぞ、頑張って!』みたいなものを凄く感じましたね」

ーー世間の注目という面でもそうですし、水沼さんのサッカー人生にとっても大事な試合になったということですよね。

「そうそう。会社に入って3年目から嘱託というプロみたいな契約にしてもらって、そこからもサッカーをずっと続けてきたけど、本当にプロになるか分からない状態でそういった契約を交わしたわけですからね。やってきたことがようやく認められて、プロという舞台でプレイできる。まぁ、“人生MAX”みたいな感じでしたね」

水沼貴史(みずぬま たかし):サッカー解説者/元日本代表。Jリーグ開幕(1993年)以降、横浜マリノスのベテランとしてチームを牽引し、1995年に現役引退。引退後は解説者やコメンテーターとして活躍する一方、青少年へのサッカーの普及にも携わる。近年はサッカーやスポーツを通じてのコミュニケーションや、親子や家族の絆をテーマにしたイベントや教室に積極的に参加。幅広い年代層の人々にサッカーの魅力を伝えている。

2020/05/03 水沼貴史のJリーグ発足秘話(中編)「1993年の歴史的開幕戦では、とにかくドリブルを仕掛けたよ」|theWORLD(ザ・ワールド)|世界中のサッカーを楽しもう!

1993年5月15日、国立霞ヶ丘陸上競技場でJリーグのオープニングゲームを戦ったのは、日本サッカーリーグ時代より鎬を削ってきたヴェルディ川崎(前身:読売クラブ)と横浜マリノス(前身:日産自動車)。日本中が固唾を呑んで見守ったこの一戦は前半19分にヴェルディのマイヤーが先制ゴールを挙げるも、後半3分にエバートン、同14分にディアスが得点し、2-1でマリノスが逆転勝利。メモリアルゲームの勝者として名を刻んだ。

Jリーグ発足秘話・中編では、この記念すべき開幕戦にスポットを当てる。マリノスの一員としてフル出場した水沼貴史氏は、熱狂と激闘のなかで何を感じていたのだろうか。

–涙が止まらなかった開幕セレモニー

ーー93年5月15日、開幕戦のセレモニーや、選手入場の際のご心境はいかがでしたか。

「国立に向かうバスの中で既にテンションがMAXになっていて、ウォーミングアップをして、その帰りにセレモニーがずっと行われていたのは覚えていますね。暗転になってレーザーが“ビューン”って飛び交うなんてことはあまり経験したことがなくて、アップを終えて帰ってきた時にヴェルディの加藤久さんと目が合ったんですけど、『いよいよだな』ってお互いを見合った時に涙がこぼれてきました。で、そこからスタジアムの暗転を見てまたテンションが上がって涙が止まらなくなって、1回ロッカールームで顔を洗ってそこから気持ちを入れ直しましたね。まるで夢のようなひと時というか、いろんなことが蘇り思い返されるというか……。今までやってきたことをこのピッチで表現しなきゃという思いもそうだし、覚悟と感動、感謝の思いがこみ上げてきたかなぁ」

ーー貴重なお話をありがとうございます。余談ですが、開幕セレモニーで流れていた『J’S THEME』も、選手の魂を揺さぶる感じの良い曲ですよね。

「そうそう! あの曲は忘れられないですね。Jリーグ25周年(2018年)の時にリメイク版が出て、アレンジが変わったんですよ。その時の企画で僕と宏太(現.横浜F・マリノス)が対談したのを覚えています(笑)。それと、開幕してからの2年くらいはCDプレイヤーで、僕はあの曲をずっと聴いていました。今の選手たちも、クラブバスから降りてからスタジアムに音楽を聴きながら入っているでしょ? ああいう感じで僕は『J’S THEME』を聴きながら試合に臨んでいました。今でもあの曲がかかると93年5月15日のことを思い出しますし、あの時の気持ちになれますね」

ーーでは、いよいよ5月15日のオープニングゲームを振り返って頂くんですけど、水沼さんご自身やチーム全体のプレイはいかがでしたか。

「とにかく気持ちが前面に出たゲームでしたね。やるしかないという覚悟に満ちた試合と言うか。自分のプレイはまぁまぁでしたね。最後決勝ゴールのところにも絡めましたし、何回か仕掛けることもできた。とにかく、全力を出しきることしか考えていませんでしたね」

ーー決勝ゴールは井原選手からのロングフィードを木村和司選手がヘディングで落とされたところからでしたよね。

「そうそう! 和司さんが落とされたボールを自分(水沼さん)が受けて、都並とペレイラの間をズバッとドリブルで抜けていった! 僕にヘディングパスが来る前に和司さんとは目が合いましたね」

ーー都並(敏史)選手とペレイラ選手の間にできたドリブルのコースも見えていたと。

「あれは一瞬で判断したんだと思います。間を抜ける時のトラップなんですけど、実は自分でボールにバックスピンをかけたんです。抜けた瞬間にはスピンでボールが止まっていたから、もう1回自分で持ち直したうえでドリブルしたのかな。まぁ、シュートがダサかったですけど(笑)」

ーーでも、あのシュートが無かったら(決勝ゴールの)ディアス選手の前にボールはこぼれなかったと。

「まぁ、そうですね(笑)」

ーーちょっと時系列が前後するんですけど、マイヤー選手の先制ゴールが決まった時はどのようなお気持ちでしたか。

「1点は入れられたけど、僕たちはヴェルディと相性は悪くなかったので。慌てることは無かったですね」

ーーそういえばこの開幕戦の前の段階で、マリノスは日産自動車時代から対ヴェルディ戦(読売クラブ戦)16試合連続無敗だったんですよね。

「確かそうでした」

ーー日本サッカーリーグ時代から日産自動車と読売クラブが高いレベルで鎬を削っていたと思うんですけど、それがJリーグの本当のオープニングゲームになったことについてはいかがお感じですか。

「この2チームが日本サッカーリーグを引っ張ってきたという自負があるし、そういったこともありオープニングカードに僕らが選ばれたんだろうと思っていました。だからこそ裏切れないなというのがありましたね」

ーー見ているお客さんの期待ということですよね。

「そうそう。16試合無敗の期間があったけど、その前は全然読売に勝てなかったんです。ボールは回されるし本当に取れない時期があって。でも1回勝ってからは自信を持ってやれるようになったかな。お互いに強さや良さを認め合っていたからこそのライバル関係だったと思いますね。相手を舐めることもないし、自分たちのほうが力は上みたいな驕りみたいなものもない。とにかく相手は上手いし強い。僕たちはそういう風に読売クラブを見ていたし、読売クラブも日産をそう見ていたと思う。だからこそ、互いに良いところを見せ合って戦えたんだと思います」

–巧みなポジションチェンジで都並氏を幻惑

ーー同点弾の直接のきっかけは木村和司選手の意外性あるショートコーナーでしたが、この前に水沼さんが敵陣でファウルを貰っていて、これがマリノスの猛攻に繋がっていますよね。

「その前にも相当倒されているので。Jリーグ史上初めてイエローカードを貰ったのが都並なんですけど、そのファウルを受けたのも僕なんです。僕は普段右サイドにいることが多いんですけど、あの試合では最初左サイドにいました。都並は僕が右サイドで絶対プレイすると思っていたから、最初に僕にガツンと行こうと思っていたんですって。けどいざ試合が始まったら僕が逆サイドにいるから、彼が拍子抜けしたらしいです」

ーー都並選手の予想が外れたと。

「そうそう。途中で僕が右サイドに来た時に、彼が1発目か2発目のチャンスを狙っていたらしいんだけど、僕も彼がガツンと来るであろうことは分かっていたから。僕がうまくファウルを貰って都並が警告を受けたと。これは後々彼と話をして『そうだったんだ』というのが判明したんですけど。当時は監督も今みたいに相手のことを分析していたけど、自分たちで考えることのほうが多かったなぁ」

ーー監督に相手の情報を与えられるより、ということですか。

「そう。もちろん監督から与えられる情報もあるんですけど、対峙する相手について個人的にも対策を練ってるみたいな。そういうのが面白かった」

ーー木村和司選手も水沼さんも、結構自陣まで戻って守備をしていらっしゃったのが印象的でした。

「和司さんもスライディングしていたしね。あんなの見たことがない。それだけあの試合には心を躍らせるものがあった。Jリーグというものに対する覚悟と責任と言いますか」

ーー覚悟を持って臨まれた試合で、見事逆転勝利を収めました。小幡主審のホイッスルが鳴った瞬間のお気持ちはいかがでしたか。

「実は、終わった後のことはあんまり覚えていなくて。『やったー』、『勝ったー』という思いくらいしか覚えていない。覚悟とか責任とか今だからそう振り返ることができますけど、その時は本当に必死で目の前の試合に臨んでいたので」

ーーその年の開幕戦にただ勝ったというような感じには見えなくて。水沼さんもそうですし、周りの選手の激しいガッツポーズを見させて頂いて、ただの1勝ではないなと。

「そうそう。その1試合だけに全力投球でしたね。なので、試合後のロッカールームでのことは覚えてないんです」

2020/05/04 横浜F・マリノスの紋章が世界12位!ユーベ、マンC、バイエルン…欧州王者勢を上回る | サカノワ

–スペインメディアが実施、50チームがノミネートされた「世界で最も美しいエンブレムのデザインランキング」。

 スペインメディア『マルカ』が5月4日、「世界の偉大なるクラブのエスクード(盾=エンブレム)ランキング、最も美しいのどこだ?」のファン投票によるランキングを発表した。Jリーグから唯一ノミネートされていた昨季J1王者の横浜F・マリノスは50チーム中12位に入り、イタリア・セリエAのユベントスFC(27位)、ドイツ・ブンデスリーガバイエルン・ミュンヘン(30位)、フランス・リーグアンのパリ・サンジェルマン(31位)、イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・シティ(32位)と、欧州主要リーグを昨季制した4チームを上回る健闘ぶりを見せた。

『マルカ』によると、このエンブレム人気投票ランキングは2回目の実施。1回目はブラジルのSEパルメイラス(ブラジル・セリエA)が世界制覇を果たしている。

 日本から唯一参戦した横浜FMは27万4000票を獲得、プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに次ぐ12位に食い込んだ。上記に記した以外にも、アヤックス(オランダ・エールディジビジ/16位)、ASローマ(セリエA/18位)、ACミラン(セリエA/22位)、チェルシー(プレミアリーグ/24位)、アーセナル(プレミアリーグ/25位)、ボルシア・ドルトムント(ブンデスリーガ/29位)などを上回った。

 1位はアル・アハリ(エジプトリーグ)で、300万票を獲得。2位ラジャ・カサブランカ(モロッコリーグ)、3位フルミネンセFC(ブラジル・セリエA)、4位レアル・マドリード(スペインリーグ)、5位フェネルバフチェSK(トルコリーグ)と続いた。

 世界の名立たる名門が参戦するなか、スペイン語で「船乗り」を表す「マリノス(MARINOS)」がまさに海を渡り、着々と(!?)世界進出を果たしている。

 
 

 
 

今日のこけまり

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