夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノスまとめ(2017/12/27) #fmarinos


夕刊こけまり:今日の横浜F・マリノス(まとめ)

(´-`).o0(2017/12/27(水)、そろそろ年内の仕事が終わる人もチラリホラリ)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.Twitter / Istagram
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

「2018横浜F・マリノス 新体制発表会」開催及び一般観覧募集のお知らせ | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(1/14(日)13:30から日産グローバル本社にて)
 
 

今日の練見(れんみ)


 
 


 
 

Twitter / Istagram


 
 


 
 

Webニュースログ

2017/12/27 横浜ウーゴ「このタイトルは大事」天皇杯必勝を誓う – 天皇杯 : 日刊スポーツ

 横浜F・マリノスFWウーゴ・ヴィエイラが元日の天皇杯決勝セレッソ大阪戦の必勝を誓った。

 23日の準決勝柏戦では、自らの決勝ゴールで延長120分間の激闘を制した。「調子はいい。このタイトルは大事。マリノスに関わる全ての方にささげたい」と意気込んだ。24、25日はオフが与えられた。勝利の余韻でクリスマスも満喫できた様子で「外でディナーを食べたり、リフレッシュできた」。来日1年目の陽気なポルトガル人が、横浜を頂点に導く。

2017/12/27 日本に戻る意志はない? 横浜FMからレンタル中のFWカイケが去就を語る【超ワールドサッカー】

▽今シーズンはブラジル・セリエAのサントスでプレーしたFWカイケ(29)だが、日本へ戻らずにブラジルに留まりたいと考えているようだ。ブラジル『グローボ』が報じた。

▽カイケは、2016年3月にフラメンゴから横浜F・マリノスへと加入。横浜FMでは、明治安田生命J1リーグで23試合に出場し4得点と結果を残せず。2017年1月にサントスへとレンタル移籍していた。

▽ブラジルに復帰した今シーズンは、セリエAで26試合に出場し3ゴールを記録。チームはセリエAを3位で終えるなど、好調を維持していた。

▽横浜FMからのレンタル移籍が終了するカイケは、今シーズンを振り返りコメント。ブラジルに戻り、良いシーズンが送れたと語った。

「個人的にはプラスのシーズンだった。スタートも良かった。1年間を通して、自分が得たチャンスを生かして、できるだけメッセージを伝えた。もちろん、僕は全てを1人でできるわけではない。チームがとても上手くいったし、僕はそれに従っただけだよ」

▽個人的に満足したシーズンを送ったカイケだが、サントスは買い取る意志がないとのこと。横浜FMとの契約は2019年まで残っているが、カイケはブラジルに留まりたいとの考えを明かした。

「横浜で2年間の契約を結んだけど、僕はここに留まりたい。別のブラジルの素晴らしいクラブにね。僕たちはいくつかの状況を待っているし、最初の交渉を待っている。個人的には良いシーズンだった。それは良い結果をもたらし、僕たちは可能な限り最良の方法でそれを掴もうと思う」

「僕だけに委ねられていることではなく、日本には僕のクラブがあり、それらが全て合意しなければいけない。でも、僕の意志はブラジルに留まることだよ」

「それが可能であれば、素晴らしいことだね。そうでなければ、僕はプロであるから、戻る準備をしなくてはいけない」

2017/12/27 【横浜M】天皇杯決勝C大阪戦へ調整 DF山中が別メニュー調整も出場へ : スポーツ報知

 横浜Mは27日、横浜市内で天皇杯決勝・C大阪戦(1月1日・埼玉)に向けた調整を行った。

 紅白戦を行った後は、DFラインやサイドからの崩しを繰り返し確認。3チームに分かれたミニゲームで1時間20分のトレーニングを締めた。エリク・モンバエルツ監督は「フランスでは大みそかと元日にイベントごとはありません。元日に試合を行うのは初めて。慣れないことだが、決勝を戦うことができることはとても素晴らしく、うれしいこと」と語った。

 準決勝・柏戦で120分間出場したDF山中亮輔はスパイクを履かず、ウォーキングやジョギングなどで別メニュー調整。柏戦のウォーミングアップ時に右ふくらはぎに違和感を感じたことを明かしたが「大事をとって軽めにやっています。120分出ましたし。監督からもそう言われています」と元日決戦の出場は問題がない様子。29日から全体練習に合流する意向を示した。

 一方で同戦で左ふくらはぎを痛め負傷退場し、試合後に肉離れだったことを明かしたMF扇原貴宏はグラウンドに姿を見せず。U―23アジア選手権(中国)の日本代表に選出されたMF遠藤渓太は、同大会期間中に行われるマリノスのメディカル検査を前倒しで行ったため、全体練習を欠席した。

2017/12/27 イッペイ シノヅカの成長物語 – 知られざる、あの選手の成長物語:Jリーグ.jp

プロのサッカー選手には当然ながら、それぞれに、それぞれが歩んできた成長物語がある。いつサッカーをはじめ、どのように現在の自分を作り上げていったのか。その知られざるストーリーに迫る新連載「知られざる、あの選手の成長物語」。第1回目の今回は今年8月、横浜F・マリノスに加入したイッペイ シノヅカ選手に登場いただいた。
名前は日本人ながら、ロシア国籍を持つこの無名でミステリアスな22歳は、どのようなキャリアを積み、横浜FMへとたどり着いたのか。その稀有で、逞しいサッカー人生を辿っていく。

イッペイ シノヅカは、1995年3月20日に千葉県で生を授かった。日本人の父とロシア人の母を持つハーフで、5歳まではアメリカやロシアで生活をしていた。幼少期は心配性の母の注意も聞かず、目を離せばすぐにどこかに行ってしまうようなやんちゃな子どもだった。

日本に戻ったのは6歳の時。身体を動かすのが好きな少年は、近所の神社で父親と遊ぶのが楽しみのひとつだった。
「小さい頃はいろんなスポーツをやっていました」

そのなかで最ものめり込んだのがサッカーだった。小学校3年生の時に地元のチームに入ると、すぐにレギュラーとなった。身体は小さかったが、ポジションに関係なくボールのある所に常に顔を出す自由奔放なプレースタイルで、チームの中心となっていった。
もっともチームはさほど強くなく、市の大会で勝つのがやっと。シノヅカも市の選抜チームに選ばれた経験はあるものの、当時の実力は「中の中の選手でした」という程度のものだった。

その頃、憧れていたのはブラジル代表のロナウジーニョ。自身のプレースタイルも「パスはほとんどしなくて、ドリブルばかりしていた」という。中学になると柏レイソルのジュニアユースのセレクションを受けるも不合格。ドルブル主体のチームだった地元のカナリーニョFCでプレーを続けた。
しかし、中学になっても際立った選手ではなく、最後の大会では試合に出ることができなかった。

「ドリブルの練習ばかりしていたので、ドリブルは上手かったと思うけど、効果的な選手ではなかったですね」
いわば平凡な選手に過ぎなかった中学時代のシノヅカだったが、当時からプロになるという想いは強かった。それは「なりたい」という願望ではなく、「なっている」という確信めいた感情だった。

「根拠なんか、あるわけがないんですよ。下手というか、大したレベルの選手ではなかったんですから。でも、なぜか分からないですけど、プロになるんだろうなと思っていたんです」
無謀とも思えるその想いは、近い将来に現実のものとなる。ターニングポイントはロシア行きだった。

中学を卒業したシノヅカは千葉の中央学院高校に進学。そこでも試合に出られない日々が続くなか、東日本大震災が起きて、母の祖国へと移り住むことになる。
「震災が起きて、学校に行けなくなったんです。電車も止まってしまって通えなくなったので、とりあえずおばあちゃんが住んでいるロシアに行くことになったんです。しばらくして日本に帰ろうとしたら、ビザの関係で、3か月はロシアに残らなくてはいけなくなってしまった。なぜか僕だけが帰れなくて……」

ロシアにいても暇を持て余すだけのシノヅカは、サッカークラブを探すことになる。最初に近所のアマチュアチームでプレーしたが物足りず、さらに上のレベルを目指すなか、育成に定評があるアカデミア・チェルターノバ・モスクワに加入することになったのだ。
ここでのプレーが、シノヅカにとっての転機となった。

もともとは3か月で帰国する予定だったが、チェルターノバ側はシノヅカの秘めたるポテンシャルを高く評価してくれた。シノヅカもロシアの高いレベルに身を投じるなかで、サッカーへの情熱はますます強まり、ここでプレーしたいという感情が日増しに大きくなっていった。シノヅカは日本の高校を中退し、ロシアでサッカー選手の道を歩むことを決断したのだ。

しかし、親元を離れてロシアで生活することに不安はなかったのか。

「僕はチャレンジするのが好きなんです。そうした環境下にいた時のほうが強くなれると思うし、自分でもそれを感じていたので、ロシアに行って良かったですね」
もっとも、ロシアでの生活は楽しいだけではなかった。しばらくして母親もロシアに来てくれたのだが、やはり言葉の壁がシノヅカに重くのしかかった。

日本にいる頃から母親がロシア語で話しかけていたので、ヒアリングは少しだけできたが、自分の想いを伝えることができない。自身の考えを周りに分かってもらえないのは、日常生活だけでなく、サッカーをプレーするうえでもネックとなった。
「練習ではよく怒られましたね。自分の言いたいことも言えないから、受け入れるしかない。練習に行きたくない時もありました」

まだクラブでサッカーを続けながらロシアの高校に通い始めたシノヅカだったが、学校生活にも上手くなじめなかった。
「日本のドラマとかを見て、日本が恋しくなったり。学校に行きたくなくなった時もありました。サッカーは休めませんでしたけど、学校を休んだことは何度かありましたね」

それでも、持ち前のチャレンジャー精神で、シノヅカはその困難に立ち向かっていく。そしてその努力が認められ、次第にチームでも重要な役割を担うようになっていった。
「最初の頃は戦術も分からないし、ドリブルばかりしていたんです。ボランチでプレーすることが多かったんですが、自分のポジションを無視して、FWのところまで行っちゃったり。そんな感じだったので初めの頃はベンチが多かったんですが、だんだん戦術も理解できるようになって、フィジカルも強くなっていった。そういうステップを踏むなかで、評価が徐々に上がっていきました」

シノヅカの活躍もあり、チェルターノバは モスクワのユースリーグで3位になった。シノヅカの存在はロシアでも徐々に知られるようになり、2012年の夏、17歳でスパルタク・モスクワと3年契約を締結するに至った。中学時代に思い描いていた根拠なき夢を、シノヅカは見事に叶えたのだった。

ところで、ロシアのサッカーのレベルは、どのようなものだったのか。日本で平凡な選手に過ぎなかったシノヅカにとっては、衝撃的なことが多かったという。
「ドリブルが得意だったんですけど、ロシアではスピードに乗ったドリブルが全然できなくて。とにかく速いから、ボールもらった時になにもできない。あとはGKのレベルも、日本では味わったことのないくらい高かったですね。至近距離から入らないんですよ。それは衝撃的でしたね」

ともあれ、そんな厳しい環境に身を置き、研磨を積んでいったシノヅカはプロ選手としてのキャリアを歩むことになったのだ。

Text by:原山 裕平
※後編につづく

 
 

今日のこけまり


【ロコさぬレポート】2017/12/23(土)15:00 第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会 準決勝 横浜F・マリノスvs.柏レイソル@等々力陸上競技場
 
 

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