今日の横浜F・マリノスの動向が6分5秒ぐらいでわかるWebまとめ「夕刊こけまり」(2025/7/17) #fmarinos


今日の横浜F・マリノスの動向が6分5秒ぐらいでわかるWebまとめ「夕刊こけまり」

(´-`).o0(アンロペ、またね。)
 
 

アンカー(目次)

1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.X(旧Twitter) / Instagramなど
4.Webニュースログ 
 
 

横浜F・マリノス オフィシャルサイト

2025/07/17 アンデルソン ロペス選手 ライオン・シティ・セーラーズFCへ完全移籍のお知らせ | ニュース | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(横浜F・マリノスでは公式戦81ゴール)

2025/07/17 【7/17追記】7/20(日)名古屋戦以降の横浜F・マリノスが出場する公式戦の運用について | ニュース | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(平たく言うと、クラブオフィシャルグッズのみ)
 
 

今日の練見(れんみ)

(´-`).o0(非公開練習)
 
 

X(旧Twitter) / Instagramなど


 
 

Webニュースログ

2025/07/17 アンデルソン・ロペス激白!横浜FMからシンガポール移籍のワケ「知らなかったが…」 | Football Tribe Japan

 横浜F・マリノスは7月17日、ブラジル人FWアンデルソン・ロペスがシンガポール1部ライオン・シティ・セーラーズFCへ完全移籍すると公式発表。現地メディアが移籍金額やシンガポール移籍の決め手を報じている。

 シンガポール『Straits Times』が伝えたところによると、ロペスの移籍金は150万ユーロ(約2億6,000万円)より低いとのこと。ブラジル1部ボタフォゴFRや、サウジアラビア、UAE国内クラブからのオファーを拒否して、シンガポールに新天地を求めたというが、本人はセーラーズ加入の理由をこう語ったという。

 「オファーを受けた時はもちろん、シンガポールについてあまり詳しく知らなかった。だけど、まわりの人に聞いてみるうちに、家族にとって良い場所だと気づきました。クラブとも(彼らのプロジェクトについて)話し合った後、これが正しい選択だと確信しました」

 妻、5歳の息子、1歳の娘にとって、シンガポールの生活環境が良いと思ったというロペス。横浜FMでは2022シーズンのJ1優勝に貢献したほか、2023シーズンから2年つづけてJ1リーグ得点王のタイトルを獲得。結果を残し、2024シーズン終了後には新たに複数年契約を結んでいた。

 しかし、2025シーズンはリーグ戦20試合の出場ながらもわずか2ゴール。4月の浦和レッズ戦後、スティーブ・ホランド元監督のスタイルを批判したことは大きな話題になったが、Jリーグの情報を専門に扱う海外メディア『japaofc』は横浜FM退団の理由について「西野努氏がスポーティングダイレクターに就任して以降、役員からの評価低下が移籍決断の大きな理由のひとつだ」「横浜FM退団という決断は、主に経営陣との軋轢、そして長年の貢献と献身的なプレーに対するクラブ内部での扱いの悪さによるものだ」などと伝えていた。

 
 
2025/07/17 「楽しみ」諏訪間幸成に笑みがこぼれた。横浜F・マリノスの救世主になる「時間を割いて、自己投資した」日々の先で【コラム】

横浜F・マリノスはリーグ中断期間前、横浜FCとの横浜ダービーを制し、徐々に明るい兆しを見せ始めている。J1残留へ残り15試合、20日の名古屋グランパス戦はその良い流れを切らさないためにも重要な一戦だ。この試合で復帰しそうなのが22歳の諏訪間幸成。怪我を乗り越えて一回り大きくなった姿をみせる。(取材・文:藤井雅彦)

— 諏訪間幸成を襲ったアクシデント

 個人の話だけで考えるならば、負傷は“青天の霹靂”と言っていい。先発出場を続けている諏訪間幸成にアクシデントが襲ったのは5月17日の京都サンガF.C.戦でのこと。

 試合開始から間もない前半の10分。シュートブロックの際に残っていた右足首が芝生に引っ掛かって転倒した。「アクシデントに近い怪我だった」と苦痛に顔を歪める。

 痛みをこらえてプレーを続けるべきか、難しい判断を迫られた。チームはこの試合を迎えるまでリーグ戦5連敗中で、実に9試合も白星から遠ざかっていた。早い時間に交代カードを使って迷惑をかけるのはできるだけ避けたい。

 だが、実際のところプレー続行は不可能だった。

「いつもはテーピングを巻けばできていたけど、今日は時間も早かったし、ベンチにもいい選手はいる。自分が中途半端なプレーをして失点したら、本当に迷惑になってしまうのでチームメイトに託した。ベンチには試合に出たくてウズウズしている選手がいる。自分が逆の立場だったら、しっかりとプレーできないのに何をやっているんだという気持ちになると思う」

 試合後も松葉杖などに頼らずに歩けていた。「1週間くらいで治る捻挫だろうと思っていた」。しかし実際は違っていた。チームドクターの診察を受けると、全治6~8週間見込みの診断が下された。

 この京都戦を含めて8試合連続で先発出場していただけに、ショックは大きかった。J1の舞台で研鑚を積み、ようやくスピード感や強度に慣れてきた頃に短くない離脱を余儀なくされる。

— 「時間を割いて、自己投資した」自分自身と見つめ合うリハビリ期間

「自分がチームを救いたいという気持ちだったけれど、こういった怪我もサッカーの一部」と割り切るしかなかった。

 リハビリに励む日々が始まると、患部の状態は日を追うごとに回復していく。ゆっくりとしたランニングができるようになり、ボールを蹴っても大丈夫になる。しっかりと踏み込んでのスプリントにも不安がなくなった。

 自分自身と見つめ合う貴重な時間でもあった。

「怪我をしない体作りや疲労の取り方を考えるようになった。体の内側から鍛えたり、体をほぐすことに時間を割いて、自己投資した。離脱は悔しかったけれど、これからの体の変化が楽しみ」

 復帰に向けて着々と歩を進める一方で、チーム状態は一向に上がってくる気配がない。まさかの最下位に低迷し、離脱している間には今シーズンに入ってから2二度目の監督交代が行われる異例の事態に。歯がゆい様子をピッチの外から見ることしかできなかった。

 中断期間前に横浜FCとの横浜ダービーを制したものの、依然として最下位という厳しい現実は変わっていない。復帰してから求められる仕事は明確で、勝利へ近づくために失点数を減らし、守備に安定感をもたらすことが期待される。

 先週から全体練習に完全合流した。負傷した箇所の痛みや不安は一切ない。大学生との練習試合にも出場して実戦感覚を養うこともできた。ゲーム形式のピッチに立てば自然とコミュニケーションも増えていく。何よりも、サッカーが純粋に楽しかった。

 復帰戦の舞台は7月20日の名古屋グランパス戦になりそう。チームとしては横浜FC戦に勝利した価値をさらに大きくするために、是が非でも連勝したい。個人としては、前半戦の経験を糧にしてひと回り大きくなった姿を見せたいところ。明確なターゲットが近づき、自然と鼻息が荒くなる。

— 定位置は約束されていない。それでも諏訪間幸成は「自分としては楽しみ」と言う

「J1は大学とプレースピードやゴール前のクオリティが一番違う。あと少しだけ寄せるところだったり、首を振ってポジションを確認したり、一瞬や一歩で決まるか決まらないかという世界。細かい部分をどれだけ突き詰められるかで、これから活躍できるかどうかが変わってくる」

 厳しいポジション争いが再び始まる。開幕から主力を担っていたジェイソン・キニョーネスの復帰も同じタイミングになるだろう。トーマス・デンも存在感を増してきている。夏の移籍ウインドーを利用して新たな補強に動く可能性もある。

 定位置は約束されていないどころか、追いかける立場かもしれない。実績や経験ではライバルに及ばない。それでも諏訪間には笑みがこぼれる。

「素晴らしい選手が揃っているし、マリノスという大きなクラブなので能力のある選手が入ってくるのは当然のこと。そこに競争があるのは当たり前だけど、自分としては楽しみ。一緒にコンビを組んで学べるものも多い。チームとして失点ゼロで抑えることが大事なので、スタートから出ても途中から出ても、もし試合に出られなくても、このチームのためにやる。みんなが同じ方向を向いていれば残留できると思うので、自分もその力になりたい」

 若さと野心を武器に、センターバックのポジション争いを盛り上げていく。その突き上げがチーム力向上の源となり、もちろん自身の成長にもつながる。リスタートを切る諏訪間が、トリコロールの救世主となる。

 
 
2025/07/17 横浜マリノス黎明期「最高の黒子」エバートン 技術は平均レベルなのにピッチ上での存在感は圧倒的 | web Sportiva (スポルティーバ)

Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち【第2回】エバートン(横浜マリノス)

戸塚 啓●取材・文

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第2回はJリーグ開幕前の1990年から1994年まで、日産自動車→横浜マリノスに在籍したエバートン・ノゲイラを紹介する。セレソンに招集されたことのない無印のブラジル人MFは、たくましいほどの献身性でチームに欠かせない選手となっていった。

 Jリーグの初ゴールを叩き込んだのは、ヴェルディ川崎のヘニー・マイヤーである。左サイドからゴール右上へ、豪快なミドルシュートだった。

 その試合で決勝ゴールを決めたのは、横浜マリノスのラモン・ディアスである。水沼貴史のシュートを相手GK菊池新吉がセーブしたこぼれ球に反応し、ゴール前に現れて左足でプッシュした。Jリーグの歴史に残るメモリアルな一戦は、マリノスが2-1で勝利したのだった。

 では、1993年5月15日に行なわれたこの一戦で、マリノスの同点弾を決めたのは?

 ブラジル人のエバートン・ノゲイラだ。

 0-1とリードされた後半、木村和司のショートコーナーをペナルティエリア左角で受けると、GKとゴールカバーのラモス瑠偉の頭上を破り、右上隅へ正確に蹴り込む。チアホーンが鳴り響く国立競技場で、愛称「エベ」は歓喜を爆発させた。

 試合後の取材エリアでも、興奮は残っていた。弾むような声で答える。

「新しいプロリーグの開幕戦という舞台で、これまで何度も競った試合を演じてきた相手から、自分がゴールすることができてすごくうれしいです。チームにとっても、この試合はファーストステージの18試合のひとつですけれど、やはり勝ってスタートできるのはとても価値があると思います」

— 【チーム屈指のハードワーカー】

 来日はJリーグ開幕前である。Jリーグ開幕前の日本サッカーリーグで、静かにキャリアを編んでいった。

 大舞台に強い、との印象がある。

 横浜マリノスとなる前の日産自動車サッカー部は、エバートンの加入後2シーズン連続でリーグ2位にとどまった。ライバルの読売クラブの後塵を拝したのだが、天皇杯では強さを発揮する。1992年元日の決勝で読売クラブを4-1で退け、1993年元日の決勝でも読売クラブを延長線の末に2-1で勝利。エバートンはどちらの試合にも出場し、はっきりとした存在感を放った。

 日本リーグ(JSL)からJリーグへ移行するタイミングの日産は、世代交代を進めるタイミングにあった。日産と日本代表を長く牽引してきた木村や水沼が健在ぶりを示していた一方で、野田知、財前恵一、松橋力蔵、山田隆裕、神野卓哉といった若いMFやFWを、計算できる戦力にしていく必要があった。

 過渡期を迎えているチームで、エンジンとなったのがエバートンである。

 ボールコントロールは平均的なレベルだった。ドリブルはなめらかさを感じさせるものではなく、ゴツゴツとした印象だった。「ブラジル人=技術に優れる」という一般的な考えは、エバートンには当てはまらなかったと言っていい。

 それでも、ピッチ上での存在感は圧倒的なのだ。すでに30歳を過ぎていたが、タフでエネルギッシュなのである。

 とにかくひたむきで、あきらめることがない。ネガティブトランジション(攻撃から守備への切り替え)では、チームの誰よりも早く帰陣して、ボールに食らいついていった。ボールのあるところにはいつもエバートンがいる、と言いたくなるほどなのだ。

「労を惜しまない」という表現が、彼ほど当てはまる選手もいなかっただろう。その献身的なプレーぶりは、感動的ですらあった。日産、マリノス黎明期の背番号7と言えば、個人的にはエバートンなのである。

 チーム屈指のハードワーカーは、プレースタイルを徐々にアップデートすることにも成功する。シーズンを重ねるごとに得点数でキャリアハイを更新し、1992年のナビスコカップでは9試合で7ゴールを記録した。10ゴールの三浦知良に次ぐ2位タイの成績を残す。

— 【アルゼンチン勢の加入によって】

 監督とコーチの立場でエバートンを見てきた清水秀彦氏に、彼の得点能力について聞いたことがある。「外国人には、わりといるタイプなんだよな」と、少し笑みを浮かべた。

「練習では、そんなにシュートはうまくない。でも、試合になると決めるんだよね。そういう外国人って、けっこういるものでさ。あれは何なんだろうね。俺にもよくわからないから、本人に聞いてみてよ」

 もちろん、本人にも聞いてみる。清水の言葉を伝えると、「僕自身は練習でもちゃんとやっているんですけどね。マリノスはGKもDFも日本代表が多いから、練習だとなかなか決まらないのでは?」と笑った。

 1993年当時のチームには、GK松永成立、CB井原正巳、CBと右SBを兼ねる勝矢寿延と、3人の日本代表が揃っていた。元日本代表の平川弘、のちに日本代表となる小村徳男もいた。簡単には得点できないというエバートンの言い分にも、うなずけるところはあった。

「それはともかく」と、エバートンが言葉をつなぎ、キリッという音がするように表情を変えた。

「(木村)カズシさん、(水沼)タカシさん、去年までこのチームにいたレナトもそうですけど、シュートのうまい選手がたくさんいて、彼らと一緒に練習をしていたら、どんどんうまくなっていったんです。でも、ブラジルでも点は取っていましたよ」

 エバートンは間違いなく円熟期を迎えていた。しかし、1993年のJリーグ開幕とともに、マリノスはセリエAで活躍したFWラモン・ディアス、攻撃的MFダビド・ビスコンティを獲得した。10月には守備的MFグスタボ・サパタを呼び寄せた。アルゼンチン人によるトライアングルが完成したのである。

 翌1994年には、メンチョことラモン・メディナベージョもマリノスの一員となる。同年のワールドカップに出場する現役アルゼンチン代表ストライカーも加わったことで、チームの方向性は客観的に見ても明らかである。ピッチに立つことのできる3つの外国人枠を、4人のアルゼンチン選手がシェアすることとなったのだ。

 エバートンは1994年のシーズン途中に、JFLの京都パープルサンガへ新天地を求める。プロフェッショナルとしてのキャリアは、ここで幕を閉じることとなった。

 プレーする環境が与えられれば、もう少しできたのではと感じる。それでも「最高の黒子」としてマリノスを下支えした足跡は力強い。トリコロールを愛する人たちの、大切な記憶となっているに違いない。

 
 

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