
(´-`).o0(本日は、ジェイソン&山根選手の誕生日)
アンカー(目次)
1.横浜F・マリノスオフィシャルサイト
2.今日の練見(れんみ)
3.X(旧Twitter) / Instagramなど
4.Webニュースログ
横浜F・マリノス オフィシャルサイト
2026/08/17 2026/27シーズン チームオフィシャルウェア発売のお知らせ | ニュース | 横浜F・マリノス 公式サイト
(´-`).o0(スポンサーの数が寂しい…)
今日の練見(れんみ)
(´-`).o0(非公開練習)
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———————————————本日のトレーニングフォトをお届け
ファン・サポーターの皆さんに見守られながら、トレーニングに励みました8.22(土)19:30 K.O. / 日産スタジアム
vs ヴィッセル神戸
https://t.co/QYAEMhTiuM#fmarinos pic.twitter.com/q9zSUCgxyX— 横浜F・マリノス【公式】 (@prompt_fmarinos) August 17, 2026
X(旧Twitter) / Instagramなど
同じ日に誕生日を迎えた #ジェイソンキニョーネス 選手と #山根陸 選手
清水戦後、2人で記念の一枚✨#fmarinos pic.twitter.com/g89ayycyI3
— 横浜F・マリノス【公式】 (@prompt_fmarinos) August 17, 2026
2026/27 J1リーグ⚽️「守備プレー回数(CBIT)ランキング」です。
【TOP5】
藤井 陽也(名古屋)33
知念 慶(横浜FM)32
ジェイソン キニョーネス(横浜FM)29
4.アレクサンダー ショルツ(FC東京)27
4.ウェベルトン(京都)27※8/15(第2節)終了時点… pic.twitter.com/73IKe8ZdyM
— J-FootVizu|数字で見るJリーグ (@j_league_data) August 17, 2026
🇧🇦 元ボスニア・ヘルツェゴビナ代表MFイゼト・ハイロヴィッチ、実は2018年冬に横浜F・マリノス移籍寸前だったと告白。
本人によると、移籍市場の最後の2〜3日で一気に話が進み、3年契約を提示され、マンチェスターでのメディカルチェックまで決まっていたという。…
— アルベルト島野 (@Albelt_Shimano) August 12, 2026
Webニュースログ
2026/08/17 第3次森保Jは「勝敗度外視」で若手発掘も 横浜Fマリノス16歳FWらの大抜擢されそうな逸材の名前|サッカー|日刊ゲンダイDIGITAL
森保短期契約ジャパンは、9月下旬のキリンチャレンジカップ(24日ウルグアイ戦=宮城、28日ベネズエラ戦=広島)から 本格的に始動する。
指揮官は、先週末も選手選考のために精力的にJリーグを視察。14日の東京V対柏に続いて、15日は福岡対C大阪を視察し、昨16日には熊本に足を延ばして「令和8年熊本地震」の被災地を訪問。熊本・氷川町の地元小中学生ら約500人と写真撮影やハイタッチをするなど約1時間30分、交流した。
森保ジャパンは10月上旬にもキリンカップ2試合(1日エクアドル戦=神奈川、5日対戦相手未定=国立)が組まれており、「12日間で4試合」のハードな日程となる。森保監督は「試合ごとに選手を入れ替えるなど多くの選手を招集させてもらうことを視野に入れている」とコメント。実際に9月ラウンドと10月ラウンドを“別チーム”として計40人前後の選手を招集する腹積もりのようだ。あるサッカー関係者がこう言う。
「これまでの森保さんはW杯予選突破と本大会上位進出が最重要課題だったので<勝つための選手選考>という“縛り”があった。でも、9、10月ラウンドは<ロス五輪世代の代表に送り出す若手選手の発掘>という側面もあり、勝敗を度外視したチャレンジングな選手選考をやっても許される状況にある。かなりリラックスした雰囲気で視察などをこなしています」
Jリーグは今季から1993年の開幕以来、初となる秋開幕-春閉幕制となった。7日の開幕日で横浜M対鹿島が6万3960人のJ最多入場者数を更新するなど注目度は上々。15日には浦和対広島に4万8707人、鹿島対名古屋に3万3560人の大観衆が詰め掛けた。
「開幕戦途中出場で得点を決めて15日の清水戦で初先発した横浜Fマリノスの16歳FW三井寺真、20歳DF関富貫太、千葉の18歳MF姫野誠、東京Vの20歳MF山 本丈偉、22歳DF溝口修平といった若武者の大抜擢もある」(前出の関係者)
フレッシュな代表メンバーになりそうだ。
— 松田直樹、18歳の記憶
型破りなディフェンダー、松田直樹が天国に旅立ってはや15年が経つ。
先の北中米ワールドカップにおいて日本代表はラウンド32でブラジル代表と対戦し、先制しながらも後半に2点を奪われて敗れた。
ふと、あの試合が重なった。
カタールで開催された1995年のワールドユース選手権(U―20ワールドカップ)。1979年の自国開催以外では初めて自力で出場を果たした日本はグループステージを2位で突破し、準々決勝でブラジルとぶつかった。今回と試合内容は違えども、同じように1-2で逆転負けして涙をのんだ。中田英寿とともに飛び級で1つ上の世代に入り、レギュラーとして活躍したのが18歳の松田であった。このときの経験がマイアミの奇跡につながった。
筆者は毎年8月に何かしらの形で彼のことをつづってきたが、「世代別代表の松田直樹」を描きたいと思った。1995年のワールドユース、翌年のアトランタオリンピック、そして2002年の日韓ワールドカップで代表チームのコーチを務め、松田の成長を間近で見てきた山本昌邦JFA技術委員長にインタビューした。
「世界と戦ってきた経験というのは自分の大きな財産になっている。国際舞台を経験できたから成長できた。ユース代表のとき山本さんに『世界を意識しろ』ってずっと言われたことによって、俺ははっきり意識するようになったから」
そう語っていた松田に世界というワードを授けて、高みを目指させたのが山本だった。
元日本代表ディフェンダーの山本は1987年に現役引退した後、指導者に転じて、ヤマハ発動機でのコーチを経てJFAのコーチングスタッフとしてオフトジャパンのスカウティング担当に就任していた。日本が出場していない1993年のワールドユースを田嶋幸三、西野朗とともに視察し、「世界は20歳でここまでやれるのか」と衝撃を受けた。
Jリーグが開幕したこの年に日本はU―17世界選手権(U―17ワールドカップ)を自国開催し、強化に力を入れたのが早生まれで入った松田たちの世代。彼がフォワードからディフェンダーへ転向したのも、代表チームを率いる小嶺忠敏が目を留めたのがきっかけだ。本大会での日本はジャンルイジ・ブッフォンのいるイタリアに引き分け、メキシコ戦ではセットプレーから松田が決勝点を奪って勝利してグループステージを突破している。準々決勝はヌワンコ・カヌのいるナイジェリアに敗れた。
— 松田直樹と山本昌邦の出会い
ワールドユースで衝撃を受けた山本と、世界の舞台を経験したU―17代表。次のワールドユースを目指すU―18代表に中田とともに飛び級で入ったのが松田であり、田中孝司監督の右腕としてコーチに就任したのが山本であった。彼は西野朗が監督を務めるアトランタ五輪出場目指す一つ上の代表コーチと兼任。松田にとって、山本の出会いは大きな意味を持つようになる。
山本の述懐。
「パススピード、シンキングスピード、フィジカルスピードを“スリーS”と呼んで、倍上げろと言ったら難しいだろうから、最低10%上げないと世界相手には通用しないって口を酸っぱくして言い続けました。よく覚えているのが、直樹が(中田)ヒデにシュートみたいなパスを出すんです。出し手のパスの質が悪いのに、2人で言い合いみたいになっていて“どっちが悪いんですか? これくらい止めなきゃダメですよね”って僕に言ってくる。そのくらいのスピードだぞって、2人がやり合いながらシュートみたいなパスの精度を高めていったことを思い出します」
「自国開催以外で出たことのないワールドユースの舞台において、どうやって勝つのかといったら守備の安定は絶対的に重要。センターバックと一つ前の中盤でしっかりトライアングルをつくっておけば、対応がしやすくなりますから。360度見てプレーするという経験はセンターバックに戻したときに役立つとも考えたとは思います」
— 「自分のミスで…」松田の号泣
ワールドユース出場を懸け、松田も臨んだ1994年9月、インドネシアでのアジアユース選手権。日本は初戦のタイ戦で0-2といきなり敗戦スタートとなる。
松田は気持ちが入りすぎたのか、相手に突破を許して先制点を与えるきっかけをつくってしまう。その後も個人的なミスが続いて、低調なパフォーマンスに終わった。
自分のミスで負けてしまった――。
試合を終えたロッカールームで選手たちは泣いていた。なかでもひときわ、声を上げて涙を流していたのが松田だった。
「“世界に行くぞ”を合言葉にして臨んだ初戦で負けて、特に直樹は凄い泣き方でした。我々は確か20本以上のシュートを浴びせましたが相手ゴールを割れずに、逆に相手には2本のシュートで決められてしまった。これだけ押しまくったら3点は獲らなきゃだめだろっていう話なんですけど、みんな少なからず重圧はあったと思うんです。でも初戦が終わったに過ぎない。どうやったらこの子たちに前を向かせて、元気づけられるだろうって僕も考えさせられました」
— “ドーハの悲劇”オフト監督が放った「3 WIN」
全体ミーティングでは戦術を落とし込むパートを山本が任されていた。翌日のミーティングで何を話そうと考えていると、「ドーハの悲劇」で知られる前年のアジア最終予選でハンス・オフトが選手たちに語った言葉が胸によぎった。
山本は言う。
「アジアカップを制してアジアチャンピオンとして臨んだ(集中開催の)最終予選でしたけど、初戦でサウジアラビアに引き分けて、イランとの2戦目に敗れて最下位になりました。負けた日の夜、みんな食事が喉を通らない。コーチの席にいた僕もそうでした。重い空気のなかオフトさんがツカツカとみんなの前に歩いていって、いつも使っている模造紙に『3 WINS』と書いた。そして、俺たちはまだ何も失っていない。あと3つ勝ったらワールドカップだぞって。その瞬間、みんなの顔色が変わりましたよ。実際、次の朝鮮民主主義人民共和国戦、韓国戦と2連勝した。イラク相手に最後の最後で同点に追いつかれてしまいましたが、オフトさんの言葉がチームを前に向かせたことは間違いありません」
— 「何も失っていない」目の色を変えた松田
タイ戦の翌日、山本はこのオフトの言葉を借りた。何も失っていない、ここからすべて勝っていけばアジアの頂点に立てるんだ、と声を張り上げた。
目の色を変えたのが、ほかならぬ松田であった。
第2戦のバーレーン戦は無失点に抑えるとともに、ヘディング弾でチーム初得点を挙げてチームの勝利に大きく貢献して汚名を返上。クウェート、韓国にも勝利し、準決勝ではイラクを破ってワールドユースの出場チケットを手にしたのだった。
松田の成長を加速させる大会になったことは言うまでもない。
「大きな失敗があったからこそ、大きな成長につなげられました。自分のミスもあって負けたと彼は思ったんでしょうが、取り返せるチャンスがあると切り替えてゴールまで奪った。覚悟を決めてやり切ろうとして結果がついてきた。直樹を含めて成長のスイッチを押した大会になったとは思います」
アジアを超えて、世界へ。
松田直樹が大きく羽ばたこうとしていた。
— ブラジルでも「勝てると思っていた」
1995年4月、開催地がナイジェリアからカタールに変更されたワールドユース選手権(U―20ワールドカップ)に日本は1979年の自国開催以来、16年ぶり2度目の出場を果たした。チリに引き分けてスタートしたグループステージは2戦目でスペインと対戦し、ラウルに決勝点を奪われて1-2敗戦。それでもブルンジとの最終戦に2-0と快勝してグループステージ突破を決めた。この年、前橋育英から横浜マリノスに進み、開幕戦からスタメンに抜擢されるなど一気に成長のサイクルに入った松田直樹は同じく飛び級で入った中田英寿とともにチームの主軸を担った。
準々決勝の相手は、サッカー王国のブラジル。普段、Jリーグでレオナルド、ジョルジーニョら現役ブラジル代表と対戦していたこともあって、のちに松田から「ブラジルといっても同じ世代なんだから、やりようによっては勝てると思っていた」と聞いたことがある。ひるむどころか、闘争心を高めていた。
前半に奥大介のミドルシュートで先制したが、カイオに2点を奪われて折り返す。後半に入るとブラジルはリスクを冒さずにリードを守り、日本にチャンスをつくらせない。終盤は松田が前線に上がってパワープレーに出る。ペナルティーエリア内で後ろから倒されてファウルを猛烈にアピールしたが、認められなかった。1-2で涙をのんだ。
当時、チームのコーチを務めた山本昌邦JFA技術委員長は、松田に頼もしさを感じていた。
「分析してもブラジルはやっぱり強いです。選手のみんなもそう認識していたし、ただ直樹が言ったように、絶対に勝てないわけじゃない。ゲームプランは前半ゼロゼロで乗り切って、後半に1点獲って逃げ切ろう、と。大介の凄いゴールが決まって先制したとはいえ(前半のうちに)勝ち越されてしまい、焦らせる展開をつくれなかった。
終盤、直樹を使ってパワープレーに出るというのもプランにありました。どんな相手であろうとも萎縮することはなかったし、“俺が何とかしてやる”というマインドを前面に押し出してくれるから本当に頼もしい。相手が強ければ強いほどそうなる。国際舞台で強みを発揮するメンタリティの持ち主でした。気持ちは上がって感情はたかぶるけど、頭のなかはクールにプレーできる選手なんですよ。ワールドユースでも、それは感じたこと」
— 松田は「何よりメンタルが規格外だった」
自国開催以外では初めてのワールドユースでベスト8。強豪ブラジルを苦しめるまでには至らなかったとはいえ、この経験が翌年に起こる“マイアミの奇跡”につながる。
松田は飛び級でアトランタオリンピック代表メンバーに入りを果たし、迎えたブラジルとのグループステージ初戦。1996年7月21日、オレンジ・ボウル。右ストッパーに入って2トップのサビオと対峙する。すばしっこい左利きのサビオに抜かれる場面はあったものの、時間が経過するにつれて封じ込んでいく。後半の勝負どころで投入された怪物ロナウドのテクニックに衝撃を覚えながらも、何とか食らいついて決定的な仕事をさせなかった。左サイドバックのロベルト・カルロスを含めてスカウティングの映像を嫌というほど見ていたとあって、イメージを膨らませることができたのも大きかった。
山本は言う。
「昔は今と違ってビデオデッキを使って(分析の)映像をつくるので時間が掛かります。だから相手のキーマンとなる選手をピックアップして、全体の食事会場や個人でも見てもらっていました。このときも彼には『途中からロナウドが入ってくるぞ。頼んだぞ』と伝えていました。彼は向かっていく気持ち、強い相手を上回ってやろうという気持ちが強いので、萎縮するんじゃなくて、逆にモチベーションが上がっていました。恵まれた体格、フィジカルもそうですけど、何よりメンタルが規格外ではありました。
それもこれも経験があってこそだとは思います。U―17、U―20で世界の舞台を経験してワールドユースでブラジルと実際にやりやった肌感もある。経験値がプレーの予測につながるから、対応できる。そのことがまた成長を呼び込むというサイクルでした」
壁を一つ乗り越えたら、また新たな壁が出てくる。
またしてもヌワンコ・カヌのいるナイジェリアに敗れ、2勝1敗で大会を去らなければならなかった。
— トルシエ監督との“確執”
松田と日本代表を語るにおいて、外せないのがフィリップ・トルシエ監督である。
A代表とシドニーオリンピックを目指すU―21代表を兼任する彼の目に留まるのは、自然の成り行きだった。1998年11月にU-21日本代表の合宿メンバーに呼ばれたものの、アルゼンチンとの親善試合ではベンチを温めた。フラット3の細かい決めごとや自身の扱いに不満を隠さなかった彼は、トルシエに呼び出されて「君がいるとチームのためにならない。離れてくれ」と“追放”されてしまうのだ。
こうなると再招集の道は難しくなる。それでもトルシエはマリノスでの活躍を評価して1999年9月の韓国遠征でセカンドチャンスを与えるも、松田は指揮官に伝えて韓国から次の遠征先のドイツに向かわずに帰国する。トルシエからの「もう代表には呼ばれなくなるぞ」との忠告も聞かずに。
両者の間に入っていたのが、コーチの山本だった。松田が不満の表情を見せていると、決まって声を掛けた。
山本が振り返る。
「そういうときはエキサイトしている状態なのですぐに話をしても仕方がない。『じゃあ何時にお前に部屋に行くから』と言って、間を置いてから話を聞いてあげる。そうすると大体は落ち着いていましたね。10代のころから知っていますし、ずっと見てきていますし、やっぱりそこは信頼関係があると思っています。直樹も、思ったことを話してくれていました。代表から離れるという相談を受けたときも『何より仲間の信頼を失うことになる。ここは最後まで我慢してやり遂げて、次に呼ばれたときに断ればいいんじゃないか』とも伝えました。『分かりました』とは言ってくれたんですけどね」
松田なりに我慢はあったのだろうが、結局は途中離脱の決断に至る。せっかくのチャンスをフイにしたのだ。
だが、ストーリーはここで終わらない。トルシエは日本人選手には珍しく闘争心をむき出しにして行動に移す松田をずっと気にかけていた。
反省しているのか? 代表に戻るつもりはあるのか? やる気はあるのか?
— 「もう途中で帰るは、ありえないぞ」
リサーチを促された山本は松田に意思を確認し、「もう途中で帰るは、ありえないぞ」とクギを刺した。松田の予想を超えて、2000年2月のカールスバーグカップのメンバーに選ばれた。“造反帰国”から4カ月しか経っておらず、それも22歳にして初めてA代表入りだった。
松田を改心させたのは言うまでもない。フラット3のラインコントロールを身に染みこませるまで反復した。離脱癖はどこへやら、いつしかトルシエから全幅の信頼を置かれるまでになった。連続した大会になる2000年のシドニーオリンピック、アジアカップ両大会のメンバーに選出された。このころはコンディションが上がらずに苦しんだ時期でもあったが、それでもアジアカップ制覇に貢献している。
そして迎えた2002年の日韓ワールドカップ。ロシアとのグループステージ第2戦に勝利してワールドカップ初勝利を挙げる。右ストッパーとしてロシアの攻撃を抑え、無失点に封じる大きな役割を果たした。
「直樹は日本サッカーが成長していくなかで、同世代のヒデとともに節目節目にとんでもなくいい仕事をしてくれました。U―17もU―20も世界でベスト8に進んでくれて、アトランタではブラジルに勝って、そして日韓ワールドカップで2勝を挙げて歴史を変えてくれた一人ですから。
— 日本サッカー界最高のモデルケース
代表でフォワードからディフェンダーに転向させて、カヌやロナウドら世界的な選手と勝負できる選手になった。飛び級で上の世代に食い込んで成長していったパスウェイは、日本サッカー界最高のモデルケースだと思いますよ」
最後に、育成年代から見守ってきた山本に松田直樹の何が秀でていたかを聞いておきたかった。
それはもう――。山本は“分かるでしょ”と言わんばかりの表情を向けた。
「仕掛ける感じでボールを持てるんですよね。止めてさばくじゃなくて、運ぶ力があるから出ていこうとする。相手を食いつかせて味方とのコンビネーションもあるし、どんどん運んでいけるし、相手が締めてきたら逆にさばこうとする。攻撃のセンス、テクニックもあるから何でもやれてしまう。普通はそこで持ち上がっていかないのがセオリーだとしても、直樹は“俺、やれちゃうんで”と平気な顔をして前に行っちゃうし、本当に引っ掛からないで行っちゃいますからね。プレーヤーとしても規格外でした」
経験を踏ませながら規格外の選手を生み出していけば、日本サッカーは世界の強豪に近づいていくことができる。松田直樹が、そう教えてくれている。
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