\Dピッチ(プライマリー)から/ 祝! 齋藤学@横浜F・マリノス、サッカーワールドカップ日本代表選出! \ワールドカップ代表/


マリノスタウンDピッチから世界へ!

2009/01/17[旧こけまり][06]2009横浜F・マリノス新体制発表会レポート

松本統括本部長あいさつ

司会台にてスピーチ。
バワポを使用

昨年8月に学がトップ出場
Dピッチ(ブライマリー)からトップ出場果たした。

2013/07/15 \Dピッチから/ 祝! 齋藤学@横浜F・マリノス、サッカー日本代表初選出! \A代表/

学はマリノスタウンが育てた!
 
 

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2014FIFAワールドカップブラジル 齋藤学選手日本代表選出記者会見


W杯日本代表に横浜M斎藤選出/神奈川新聞(カナロコ)
 
 

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2014/05/12 W杯日本代表に初選出 横浜M・斎藤「自分の武器で勝利貢献したい」

 サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会に出場する日本代表メンバーに選出された横浜Mの斎藤学が12日、日産スタジアムで記者会見を開き、「すごく嬉しいが、ここからがスタート。自分の武器を出して日本の勝利に貢献したい」などと喜びの声を語った。質疑応答の一部は以下の通り。

―初のW杯出場が決まった

昨夜は緊張してあまり寝付けなかった。W杯の舞台に立つのが夢や目標だった。メンバーに選ばれるだけではなく日本の歴史を作るという思いで頑張っていきたい。

―率直な気持ちは

選ばれたことはすごく嬉しいが、これからが勝負。ピッチにたってプレーしてこそ意味がある。

―自らがザッケローニ監督に求められているプレーとは

 自分の武器であるドリブルやゴールに向かう動きだと思っている。この武器を生かして日本の勝利に貢献できるようなプレーができればいいと思う。泥臭く守備もしていきたい。

2014/05/12サッカー日本代表:斎藤、「俺頑張るよ」…亡き祖母に活躍誓う

 「ばあちゃん、俺頑張るよ」。12日、サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会日本代表として初選出されたJリーグ横浜F・マリノスの斎藤学選手(24)=川崎市幸区出身。天国の祖母へささげるゴールを誓っている。 

 月命日だったこの日。孫の代表入りが決まると、祖父の衛さん(84)はトロフィーやメダルで囲まれた部屋の遺影を見つめた。「おばあちゃんもきっと素晴らしいと言ってる。良かった。それしかない」

 美津子さんが亡くなったのは昨年12月12日。77歳。肺がんだった。

 両親が共働きだったため祖母が優しい母代わり。近所に天ぷらや煮物を振る舞うほど料理が得意で、斎藤選手も甘い卵焼きが大好きだった。小学校から帰るとランドセルを置いて、飛び出すようにマリノスのサッカースクールへ。小さなその手に、いつもおにぎりを持たせてくれた。

 「これ、きょうもらってきたよ。ここへ飾ろう」。大会の優勝トロフィーを真っ先に持って行く相手は、決まって美津子さん。2012年のロンドン五輪で着たユニホームも、ことし1月1日の天皇杯で優勝して手に入れたメダルも、やはり祖父母の自宅に飾ってある。衛さんは「かみさんが一番学を心配していたし、学を頼りにしていた」と懐かしむ。

 今シーズン。海外遠征や大事な試合の時、斎藤選手は必ず仏壇の前で手を合わせてきた。「ばあちゃん、行ってくる」。感謝の気持ちを表現できるのはグラウンドの上だけ。そんな思いは日増しに強くなり、ついにW杯の日本代表メンバー入りを決めた。

 ひつぎの中には、自身の名前が入ったマリノスの金色のタオルを入れた。「きっと、どこかで見ていてくれてるよね」。祖母も待ち望んでいたW杯で、代表のユニホームを着て輝く。それが天国にいる祖母へのメッセージだ。

2014/05/13【サッカー小僧ブラジルへ】(1)芽生えた自覚~偉大な背中追い成長

 空から舞い降りた色とりどりの折り鶴が、緑のピッチを覆い尽くした。2002年6月30日、W杯日韓大会の決勝が行われた横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)。「いつか、こんな舞台に立ちたい」。12歳の少年は熱い思いを胸に、観客席からブラジルの歓喜を見つめていた。

 あれから12年。精(せい)悍(かん)になった24歳の青年はかつて夢を抱いた同じ場所、日産スタジアムで晴れの会見に臨んだ。「ここからがスタート。選ばれるだけではなく日本の歴史をつくる、そういう思いを持って挑んでいきたい」。横浜Mの斎藤学は夢を現実のものとした。

 力強い言葉とは裏腹に自信はなかった。今季はアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)とリーグ戦の過密日程を強いられてきた。調子が上がらず、公式戦17試合で4得点。前夜は緊張から寝付けなかった。

 「どうなってもしょうがない。難しいかな」。地元の友人と自宅のテレビで見守り、ザッケローニ監督の口から名前が出たのは22番目だった。

 「嘉人さんで盛り上がって、呼ばれたのに最初、気が付かなくて」と笑った。

 初めて日の丸を背負ったのは13年7月。リーグ屈指のドリブラーは東アジア・カップから、わずか10カ月余りでW杯メンバーまで駆け上がった。

 躍動するピッチ上とは違い、優しく少し控えめな斎藤に自覚が芽生え始めたのは、ことしになってから。14年3月の国際親善試合で本田(ACミラン)ら欧州組と後半34分からプレーし、自信をつかみ始めた。

 「W杯に出れば、人生が変わる。ここまできたらプレーしたい」。初めはパスが回ってくることを喜び、練習では不慣れなボランチでプレーしたこともあったが泣き言を言わなかった。

 前向きな姿勢でザッケローニ監督の切り札として地位を確立し、日本でたった23人の枠をつかんだ。

 ずっと偉大な背中を追い掛けていた。

 日本代表でも背番号10を任されたMF中村、代表通算110試合の出場を誇るDF中沢。練習の開始2時間前にはクラブハウスを訪れ、35歳を過ぎても第一線で走るベテランの姿に、ずっと刺激をもらってきた。「日々のトレーニングの姿勢を見ているので、A代表に呼ばれても慢心できない環境にあった」。良き手本を励みに、成長を続けてきた。

 井原らから始まり、松田、中沢、中村と、横浜Mから選ばれるのはこれで5大会連続になる。名門の歴史を引き継いだ斎藤は言う。「小さい頃から、マリノスの選手がW杯で戦ってきた姿を見て育っている。今の育成組織の子どもたちにも見てもらえる活躍がしたい」。夢は紡いでいくもの-。そう思っている。

 小学3年生からトリコロールに身を包んで戦ってきた斎藤学。いつもボールを追ってきたサッカー小僧は、順風、ときに逆風を受けながら成長の階段を上がってきた。J2愛媛時代の武者修行を経てロンドン五輪に出場、そして最高峰のW杯へ旅立つ。川崎で生まれ、横浜で育まれたドリブラーの軌跡を追う。

◆斎藤学 FW。W杯初代表。2012年ロンドン五輪代表を経て、13年7月の東アジア・カップでA代表デビュー。国際Aマッチ4試合に出場し1得点。狭いエリアを打開できるドリブル突破に定評があり、本大会では流れを変える切り札として期待される。東小倉SC、横浜Mプライマリー(日吉小)-同ジュニアユース(塚越中)-同ユース(市川崎高)-横浜M-愛媛-横浜M。J1通算91試合11得点、J2通算36試合14得点。169センチ、68キロ。24歳。川崎市幸区出身。

2014/05/14【サッカー小僧ブラジルへ】(2) 名門下部組織 助言受け磨いた特徴

 ボールを受けた途端、その小さな背中は一気に加速し、敵陣でさらに遠く小さくなっていく。横浜Mの斎藤学が小学高学年だったころ、2年間指導した横浜M・育成ダイレクターの小池直文は何度もそんな光景を目の当たりにしてきた。

 「才能が違っていた。クラブとして、プロにしないといけないと思っていた」。ピッチ中央でボールを受けると、ドリブルで相手DFをごぼう抜きにする。「学は止められないよ」。仲間の声を小池は今も覚えている。

 1学年上の小学6年のチームに交じっても、ゴールを量産。日産自動車サッカー部から受け継がれる名門の下部組織というエリート集団のなか、原石はすでにまばゆいほどの輝きを放っていた。

 「プライマリー」という名の下部組織に入ったのは小学3年のとき。斎藤は地元の川崎市幸区の東小倉SCから、入団テストで100人中、合格者8人という狭き門を突破した。

 今回のワールドカップ(W杯)メンバーに選ばれた23人で169センチは最も小柄だが、当時も周囲と比べて一回りも小さかった。それでもボールを触らせれば誰よりもうまく素早かった。

 「チームメートだと相手にならない。自分も抜かれそうでした」。中学1年時に指導したジュニアユースMM(みなとみらい)監督の坪倉進弥も、才能に舌を巻いていた一人だ。

 クラブは成長を促すため、慢心することがないようにと1学年上のカテゴリーで積極的にプレーさせた。本人も大人たちの考えを理解していたようで、当時から「自分がエース」という自覚があったと述懐している。

 非凡なセンスが磨かれた背景には、2003年にスタートした日本サッカー協会が主導する「エリートプログラム」の存在もある。中学生世代の男女を対象に、世界で通用する選手の育成に乗り出した協会のプログラムの1期生として選ばれ続けた。

 1学年上で、ともに代表入りを果たした柿谷曜一朗(C大阪)ら全国から発掘された有望株と合宿や海外遠征を重ね、研さんを積んだ。06年にはU-17(17歳以下)アジア選手権で頂点に輝き、翌年にはU-17W杯にも出場。世界での経験も重ねてきた。

 若き才能は時に過信し、自らをつぶしてしまう。そんな心配とも斎藤は無縁だった。

 「学は純粋。取り組み方が違う。自分から学びに来る姿勢じゃないと競争は勝ち抜けない」。小池、坪倉ら歴代の指導者は口をそろえる。練習前にはチームの荷物を率先して運び、グラウンドには誰よりも早く姿を現し、いつまでもボールと戯れていたという。

 今や代名詞である小刻みなタッチで敵をかわすドリブルについて斎藤は「いろんなコーチのアドバイスを受け、自分で考えながら、自分の特徴を磨いてきた」と言う。サッカーがうまくなりたいという一途(いちず)さが成長を止めなかった要因だった。

 08年8月には、ついに高校3年生ながらトップデビュー。「練習ではボンバー(DF中沢)にもガンガン向かっていく。怖いもの知らずという感じでした」。当時チームメートだったDF天野貴史(千葉)がそう評するスター候補はしかし、初めてと言っていい試練のときを迎えることになる。

2014/05/15【サッカー小僧ブラジルへ】(3)J2愛媛へ移籍、自信喪失し初の決断

 2010年、少し日差しも弱まった夏の終わりの頃だった。「練習に行きたくないな。休みになればいいのに」。横浜市西区のマリノスタウンへと走らせる車内で、横浜Mの斎藤学は思わずそうつぶやいていた。

 サッカーが好きで、純粋にボールを追い掛けてきた日々がまるで嘘(うそ)のようだった。心の中には今まで味わったことがない感情が渦巻いていた。

 誰もがうらやむサッカー人生に、大きな落とし穴が待っていた。09年のルーキーイヤーはいずれも途中出場の11試合に終わり、同年10月にはサテライトリーグで左膝半月板損傷の全治6カ月の重傷を負った。飛躍を期したプロ2年目は出遅れを余儀なくされた。

 翌10年の4月にリハビリから復帰したが、出番はなかなか巡ってこなかった。その3カ月後には、かつての自分を彷彿(ほうふつ)とさせる小野裕二(ベルギー・スタンダール)が高校3年生でトップデビューを果たす。2年前に自分に向けられていたスポットライトが後輩を照らしていた。

 「裕二にポジションを奪われて、紅白戦ではサイドバックもやらされた。初めて年下にポジションを奪われたのはショックでした」

 当時、斎藤の居残り練習にコーチとして付き添っていた横浜Mユース監督の阿井達也は、ドリブラーの苦悩を間近で見てきた。「問題の解決策が分からなくなり、自信もなくなる。そうなると、監督も『プロではきついのかな』という視線になっていた」。2人は練習後の大浴場で答えのない会話を1~2時間近く、続けたこともあった。

 「やるしかねえだろ」。阿井は何度も何度も励ましたが、沈んだ表情は変わらなかった。2シーズン目も途中出場のみの5試合71分間。得点は10年も奪えなかった。

 「自信がなくなった」。そうこぼす斎藤に、縁もゆかりもない地から獲得のオファーが届いたのは、その年のシーズンオフだった。

 熱いまなざしを斎藤に送っていた男がいた。

 J2愛媛で強化部長を務める児玉雄一。「うちが取れる大学生より、試合に出ていないJ1の選手の方が能力は高い」。来季に向けてアタッカーを探していた児玉は、関東近辺で行われる試合に合わせて、マリノスタウンにもよく足を運んでいた。

 「こんなものだったかな」。ユース時代から知っている、ドリブルで敵陣を切り裂くイメージはなくなっていた。それでも、可能性に懸けてみたくなったのはかつての勇姿に衝撃を受けていたからだった。「カテゴリーが下がって、自由に(プレー)できる環境になれば、おもしろいんじゃないかな」

 20歳の冬、愛媛から獲得の打診を受けた斎藤は、10年近く身にまとったトリコロールのユニホームをいったんしまう決断を下した。不安がなかったと言えば嘘になる。でも「自分はまだ負けていない」と思っていた。

 ゲームに、ゴールに飢えていた。サッカー人生を賭した初めての移籍だった。

2014/05/16 【サッカー小僧ブラジルへ】(4)仲間からの信頼、勝利追求へ意識変化

 後半42分。味方が落としたボールを受け取った斎藤学は、ペナルティーエリアに迷いなく切れ込んでいった。シュートをブロックしようと飛び込む相手DF3人を次々とかわし、最後は冷静に右足でゴール左隅へ、同点弾を流し込んだ。

 2011年5月8日、平塚競技場(現ShonanBMWスタジアム平塚)で行われたJ2、湘南-愛媛の一戦。湘南を指揮していた反町康治(現J2松本監督)は、アルゼンチンのメッシ(バルセロナ)と姿を重ね合わせ、こう脱帽した。「きょうは『愛媛のメッシ』にやられた」

 「エヒメッシ」。斎藤はそんな愛称とともに一躍、スターダムにのし上がる。「何かを変えるために、どうせなら、遠くに行こう」。そう腹をくくり、愛媛への移籍を決断した21歳は再び陽の当たる場所へ帰ってきた。

 「学。おまえだけは自由にやれ」

 当時の愛媛監督、クロアチア人のイヴィッツア・バルバリッチは規律にとても厳しかったが、斎藤だけは特別扱いした。旧ユーゴ時代にイビチャ・オシムの薫陶を受けたこともある指揮官は、1対1が仕掛けられる状況をつくる動き方まで徹底し、ドリブラーに自由を与えていた。

 愛媛のDF関根永悟は斎藤を頼もしく感じていた一人だ。「個で何かやってくれる。得点力があり心強かった」。1年間だけではあったが、仲間から寄せられる信頼は絶大だった。

 それは斎藤自身にも変化を及ぼした。「チームがどうすれば勝てるか。J1にどうしたら上げられるか」。過去2年間はアピールすることばかりにとらわれていた。それがチームを勝たせるために何をするべきかを考えるようになった。

 だからこそ、練習から全力を尽くした。バルバリッチは居残り練習を禁止していたが、仲間と口裏を合わせて隠れながら、シュート練習をしたことは数え切れない。

 当時ゴールマウスを守っていたユースGKコーチの川北裕介は「僕が駄目なら他のキーパーに頼み込み、それでも駄目なら自分一人で練習していた」と、その高いプロ意識を懐かしんだ。

 愛媛時代、生活面でも変化が表れた。「何をしに愛媛に来ているか、ちゃんと理解していた」。そう証言するのは、斎藤が毎日のように通っていた松山市内にある食堂「ごはん屋まるとく」の宇都宮ゆかり。

 「もも肉ではなく、胸肉にして」「油は一切使わないで」。故郷から遠く離れた土地で、緩みがちな食生活にも人一倍気を配っていた。人生で初めて料理も作った。練習着だって自ら洗った。

 全てはサッカーのため、勝利のため。誰も知らなかった土地で、責任感と、たくましさが小さな体には宿っていった。

 初めて1シーズンを走り抜き、得点はJ2ランキング3位タイの14点。出場した36試合3097分は、武器だったドリブルで突破するスタイルを確立し、失った自信を取り戻す時間だった。

 日本代表メンバーに選出された12日、愛媛で過ごした1年間をこう表現した。「プロとして、壁にぶち当たった時に手を差し伸べてくれた。愛媛FCで自分のサッカー人生がすべて変わった」 =敬称略

2014/05/16 【サッカー小僧ブラジルへ】(5)夢に向かって 雌伏の時越え花開く

 「愛媛で積み上げたものを、J2の土俵で再び試すのか。本当に成長を示すのはJ1じゃないか。学、一回帰ってこい」。2011年12月、横浜市西区のマリノスタウン。チーム統括本部長の下條佳明は、たくましくなった斎藤学に熱っぽく語り掛けた。

 だが21歳の胸中は揺れ動いていた。自分を再生させてくれた愛媛でプレーを続けるのか、原点である横浜Mで再び勝負を懸けるのか-。自信を取り戻したとはいえ「(横浜Mで)先発争いに勝ち残れるのか」という懸念を完全には消せなかった。

 決め手になったのは、期限付き移籍を決断した際、自らに言い聞かせた言葉だ。

 「絶対にもう一度、マリノスでチャレンジする」。失意の底にあった1年前の誓いを思い出し、斎藤は再びトリコロールのユニホームに身を包むことを決めた。

 その決断が間違いではなかったと、すぐに証明した。翌12年2月、ロンドン五輪アジア最終予選のマレーシア戦で得点すると、3月のJ1リーグ開幕戦ではプロ初先発を果たし、初ゴールまで決めた。

 迎えた夏、ロンドン五輪に臨む18人に選ばれ、全6試合のうち5試合に出場。44年ぶりの4強入りに貢献した。

 13年シーズンは一層の飛躍を遂げた。7月の東アジア・カップで初めてフル代表に選出され、オーストラリア戦で初ゴール。翌14年1月1日の天皇杯決勝では先制弾を決めて流れを引き寄せ、21大会ぶりに頂点に立った。

 日本一に輝いたのはサッカー人生で初めて。2位に終わったリーグ戦も含め「ずっと重圧の中で戦った経験も人生初。天皇杯で得点もできたし、大きな経験になった」と斎藤は振り返る。雌伏の時を経て、その才能はついに解き放たれた。

 いまや日本屈指のドリブラーとなった斎藤だが、その素顔は点取り屋のエゴイストなイメージとはほど遠い。

 「まなぶー、一緒にサッカーしようよ」。練習後、下部組織の少年たちに囲まれると人懐っこい笑顔で応じる。

 中学時代に2年間指導したプライマリー監督の西谷冬樹は「日本代表になっても、友達のような感覚で触れ合ってくれる。子どもも自然と、学のようになりたいと思う」と存在の大きさを口にする。

 ロンドン五輪直後、斎藤は愛媛FCの関係者に感謝の気持ちを伝えるため愛媛を訪れた。足しげく通った松山市内の食堂「ごはん屋まるとく」の宇都宮ゆかりには、母の日に花を贈っている。「大きく育っていく子は、感謝の気持ちやいたわる気持ちを忘れないですね。義理堅い子です」とは松山の母の言葉だ。

 わずか4年前。斎藤は横浜Mでベンチ入りすらできなかった。それでも、サッカーができる喜びを忘れず、謙虚に、まじめに取り組んできた。

 「W杯メンバーに選ばれたことはうれしいけど、ここからもっと成長したい」。そのひたむきな姿勢、着実な歩みはこれからも止まらない。

 169センチの背中には大きな夢が詰まっている。さらなる進化を遂げ、いつか世界のトップリーグへ。W杯はその途上。自慢のドリブルで王国のピッチを切り裂き、サクセスストーリーを紡ぎ続ける。 =敬称略

 〈おわり〉

 
 

サッカーキング

2014/05/12日本代表選出の斎藤学「代表を勝たせることができるよう頑張る」

 日本代表を率いるアルベルト・ザッケローニ監督は12日、ブラジル・ワールドカップに臨む代表メンバー23名を発表した。

 代表に選出された、横浜Fマリノスに所属するMF斎藤学は、クラブを通して次のようにコメントを発表した。

「ワールドカップのメンバーに選出されて、大変光栄に思います。F・マリノス関係者の皆さん、両親、親族の皆さん、愛媛FCの皆さん、そして応援してくださった、ファン・サポーターの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います。ただ、選ばれたことはすごく嬉しいですが、またここからがスタートだと思うので、ワールドカップでの勝利に貢献できるようにしっかりとトレーニングを積んで、自分が日本代表を勝たせることができるように頑張っていきたいと思います。」

 斎藤は今シーズン、J1で11試合に出場し、1ゴールを挙げている。

サンスポ

2014/05/12ジョーカー役に期待の斎藤「ここからが勝負」

 日本サッカー協会は12日、都内でブラジルW杯に臨む代表23人を発表した。横浜Mの斎藤は前夜に緊張でなかなか寝付けなかったという。自宅のテレビで親友と自分の名前を確かめたそうで「選ばれるだけでなく、ピッチに立ってこそ意味がある。ここからが勝負」と気を引き締め直した。

 プロの壁にぶつかった2011年にJ2愛媛に期限付きで移籍し、ドリブルを武器に成長を遂げた。「愛媛でサッカー人生の全てが変わった」と感謝した。

 流れを変える切り札として期待がかかるが「先発で出たいのは当たり前」と語り「自分の武器を出すことが求められている。日本の歴史をつくる思いを持って挑んでいきたい」と力強く言った。(共同)

ニッカン

2014/05/12斎藤学「自分が勝たせられるように」

 W杯ブラジル大会(6月12日開幕)のメンバー23人に選出された横浜のFW斎藤学(24)が12日、横浜市内の日産スタジアムで会見を行った。

 この日はオフで自宅のテレビで吉報を知り、「選ばれたことはうれしいが、ここからがスタート。W杯での勝利に貢献できるようにトレーニングを積んで、自分が日本代表を勝たせられるようにしたい」と締まった表情で話した。横浜からは98年フランス大会から5大会連続でのW杯代表選手にもなった。「5大会連続でW杯に出られるのは誇り。その1人になれたことはうれしいです」と述べた。

スポニチ

2014/05/12斎藤「ここからが勝負」切り札として期待も先発へ意欲

 横浜の斎藤は前夜に緊張でなかなか寝付けなかったという。自宅のテレビで親友と自分の名前を確かめたそうで「選ばれるだけでなく、ピッチに立ってこそ意味がある。ここからが勝負」と気を引き締め直した。

 プロの壁にぶつかった2011年にJ2愛媛に期限付きで移籍し、ドリブルを武器に成長を遂げた。「愛媛でサッカー人生の全てが変わった」と感謝した。

 流れを変える切り札として期待がかかるが「先発で出たいのは当たり前」と語り「自分の武器を出すことが求められている。日本の歴史をつくる思いを持って挑んでいきたい」と力強く言った。


 
 

 
 

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